剣花伝

□第二章 思ふ心は 花曇り
2ページ/8ページ

「随分と遅うござりましたな」

 不機嫌な表情を隠そうともしない女房の橘に迎えられて、高遠と満四郎は苦笑するしかなかった。
 橘の事は、高遠も姿を何度か見た事がある。八重が物ごころついた時から仕えているのだと聞いた事もあるが、こうして面と向かって話すのはこれで二度目だった。だがどうにも高遠は、彼女に嫌われている気がしてならない。

「それで橘殿。私達の部屋はいずこになるのでしょうか」

 空気を変えるつもりで言ったのだが、橘は更に渋面を浮かべて不機嫌になってしまった。

「あなた方の部屋でござりましたら、今、目の前にあるのがそうでござりまする」

 目の前にあるのは、大人が五人は寝られそうな程の広さに区切られた廂だ。二つ置かれた円座と寝具以外、部屋には何も無い。だが、正面にある襖(ふすま)障子(しょうじ)には歳経(へ)た美しい松が描(えが)かれており、金箔が鈍く輝いていた。どこかで見た事のある絵だ。
 記憶を掘り起こすまでも無く、すぐに気付く。この絵が描かれている襖を使っている人物はこの屋敷で一人しかいない。

「……私の記憶違いでなければ、この襖の向こう側は、姫の部屋ではござりませぬか?」
「ええ。高遠殿が申される通りでござります」

 さすがに高遠と満四郎の目が点になった。屋敷内に通されたときに、おかしい気はしていたが、まさか八重の部屋へ続く廂に部屋を設けられるとは露にも思わなかったのだ。夫婦でもない男女が、こんな近くで寝起きを共にするなど考えられない事だった。

「お二方とも、決してこれは間違いではありませぬよ」

 二人が何か言うより早く、橘が早口で疑問をさえぎる。

「兼光様と姫様のご意向です。良いですか、決して……、決して間違いなど起こされませぬよう」

 どうやら、彼女の不機嫌の理由はこれだったようだ。橘の強い口調に、何も反論する事が出来ない。気圧された二人はだまって頷くしかなかった。

「よろしうござります。荷が片付きましたら、まずは道院(どういん)様の所へおゆきくださりませ。そこで今後の事をお話になられるそうですよ」

 一通りの説明を終えると、終始不機嫌だった橘は不機嫌なまま八重の元へ戻っていった。橘の姿が見えなくなると、二人は小さく息を吐く。そして、互いに苦笑を浮かべた。

「橘様を悪く思われないでくださりませ」

 背後から聞こえた声に振り返ると、八重に仕えているもう一人の女房がいた。

「橘様は姫様が母君を亡くされてから、自分の子のようにお育てしてきた方。姫様が心配でならないのです」
「あなたは……」
「梅と申します」

 おっとりと笑みを浮かべる梅は、五年ほど前から八重に仕えている女房だ。少したれ気味の目元が、彼女の性格を表しているように見える。

「橘殿を悪く思う事はありませんよ。姫を大事に思っておられる証拠です」

 高遠の言葉に、梅はほっと肩の力を抜く。

「左様。橘殿は兵の間でもすでに恐れられていたお方。恐れはすれど、悪くなど思うはずありませぬ」
「おい、こら満四郎。何を言うか」

 小声で高遠が制するが、当の満四郎はまるで口笛を吹きだしそうなほど飄々(ひょうひょう)としている。仕方なく高遠が弁明にあたるはめになってしまった。

「や、兵の間と申しても、一部と言いますか」
「……ふふふ」
「う、梅殿?」
「すみません。橘様の評判は存じ上げております。橘様自身、お知りになった時は随分怒っていらっしゃって。その時の事を思い出してしまったのです」

 知られていた事にどう対応すれば良いのか分からず、高遠は頭を押さえた。

「ほれ。ご本人が存じ上げているなら、俺が今言おうが言うまいが変わらなかったではないか」
「……満四郎。何がほれだ。そういう問題ではない」

 満四郎の悪い癖だ。たまにこういう戯言を言う。本人は良いかもしれないが、とばっちりを受ける高遠の身にもなってほしい。
 梅はひとしきり笑うと、二人に向き直った。

「橘様より、お二人を道院様のもとへ案内するよう仰せつかっております。私は控えておりますので、準備が整いましたらお声をかけて下さりませ」

 軽く頭を下げると、梅は部屋から少し離れた濡れ縁へ移動する。その姿を見送って、二人は荷をほどき始めた。




次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ