剣花伝

□第一章 咲き初めに
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第一章 咲き初めに

   一

 日毎、葉の色を濃くしていく木々が、ゆっくりと橙色に染まっていく。東の空はすでに藍色がかっていて、音もなく夕闇が迫っていた。ようやく綻び始めた桜の花だけが、仄かな明るさを残して、陽が沈む事を拒絶しているようだ。いまだ寒気の残る空気は、日が暮れるほど冬のような冷たさを帯びていく。
 屋敷の庭を見回っていた田村高遠(たむらのたかとお)は、冷たい風に肩をさすった。吐く息がどことなく白い。それほどに今日の空気は冷えていた。今夜の警護は骨が折れそうだ。
軽く息を吐きながら足を止めると、高遠は辺りを見渡す。どこにも異常が無い事を認めて、再び足を動かした。
高遠はこの里を治める豪族、藤森氏に仕えている夫役(ぶやく)の一人だ。役回りは京の近衛府(このえふ)のようなもので、屋敷の周辺と門の内側を交代で警護し、見回るのが仕事だ。高遠は2年ほど前にこの夫役に就いた。ずっと就きたいと思っていたので、知らせを聞いたときは飛び上るほどに嬉しかった事を覚えている。
 風が駆け抜けていって、木々が揺れた。風に運ばれたのか、どこからか水の流れる音もさらさらと聞こえてくる。

「今日は冷えるな」

 黄昏(たそがれ)色に染まる中を歩いていた高遠は、男の声に振り返った。男は人好きのする笑みを浮かべて、高遠に近づいてくる。
男の名は静平満四郎(しずひらのみつしろう)といって、高遠と同じ時期、屋敷護衛の任についた男だ。気さくで話しやすい彼に、高遠は好感を持っていた。
高遠は歩みを止めると、彼が近くまで来るのを待った。

「ああ、確かに寒い。だが、こんな夜は空気が澄んで月がよく見えるんだ。夜桜が見事だろうな」
「やれやれ。相変わらず高遠は風流な事を言う」
「お前が無頓着(むとんちゃく)すぎるんだ」

 二人は冗談まじりに言葉を交わして、同時に笑った。いつの間にか、辺りは夜の気配に包まれ始めている。影の闇が徐々に濃くなっていた。
「そういえば満四郎。お前に嫁が決まったと聞いたぞ」

 高遠の言葉に満四郎は照れたようで、自分の頭をはたいた。

「なんだ、もう知らせがいってたか。いや、実を言うと今日話そうと思っていたんだが。誰に聞いたんだ?」
「うちの婆様(ばばさま)だ」

 婆様とは、身寄りを無くした高遠をずっと育ててくれた人の事だ。夫もおり、高遠は彼を爺様(じじさま)と呼んでいる。
実を言えば、高遠はこの里の出身ではない。生き倒れている所を助けられ、今の老夫婦に預けられたのだ。親を亡くした高遠にとって、二人は実の親のように大切な存在だった。

「そうだったのか。人の口に戸は立てられんな」

 苦笑しながらも、満四郎はどことなく嬉しげだ。

「で、どこの娘なんだ」
「実を言うと、隣家の娘なんだ。名をしちと言って、俺の幼馴染のようなもんだ」
「何、それは随分近い所にいたな。祝言はいつだ?」
「今月は色々と行事が多いだろう。おそらく、早くても夏以降にはなると思う」
「そうか…」

 十八歳にもなれば嫁がいるのは当たり前だ。早い者なら十六で祝言を挙げる者もいる。老齢になった里親達を安心させるためにも、本当ならば高遠もそろそろ嫁をもらうべきなのだろう。だが、今の高遠にはまったくその気が無かった。いや、これから先も無いのだろうと思う。
 高遠が更に何かを言おうとした時だ。人の気配がして、二人は同時に屋敷を振り返る。屋敷の角から、濡れ縁を歩いてやって来た人物を認めて、二人はとっさに土に膝をついた。
 現れたのは、とても美しい少女だった。
裾(すそ)に流れる艶やかな黒髪。闇にも負けない白い面(おもて)。真っ黒な瞳は、波紋一つ無い湖面を思わせるほど涼やかだ。
少女の名は、藤森八重(ふじもりのやえ)。
 この屋敷の主であり、この里を治める豪族、藤森氏の娘だ。
八重はかすかな衣擦(きぬず)れの音をさせながら、二人の女房を連れて高遠の前を通りすぎて行く。高遠は低頭しながらも、そんな八重を盗み見た。久方ぶりに見た彼女は、以前にも増して美しさが増しているような気がする。どこか儚げで、危うい。そんな美しさだ。
 彼女が通り過ぎるまでの間。世界は凛とした静謐(せいひつ)な空気に満たされていた。
 八重の姿が消えると、二人は立ち上がった。ふう、と高遠は小さく息を吐く。何故か、八重を前にするといつも高遠は少し緊張した。
「さて、と。俺はそろそろ持ち場に戻るかね」
 満四郎の言葉に、彼へ視線だけを送る。そうして、辺りを見渡した。すっかり日が暮れたらしい。松の下に出来た影は濃くなり、低い位置に上弦の月が現れていた。

「そうだな。夜は一層気を引き締めておかねばならん」

 もっともらしく互いに頷くと、二人は別れた。夜の闇はまだまだ落ちたばかり。これからが闇の本当の時間だ。


 するすると、衣擦れの音をさせて八重達は濡れ縁を歩いていた。赤い高欄(こうらん)も今は色を無くし、闇に沈んでいる。時折、葉のこすれる音が聞こえていた。

「手燭(てしょく)を用意した方がようございましたね」

 八重の後ろに随従していた女房の一人が言葉を零す。もう一人の女房から頷く気配がした。確かに、と八重も思う。今日の闇はいつもより濃いような気がするのだ。日が落ちたとはいえ、今はまだ酉(とり)の刻。ここまで真暗くなるはずもない。
 進めていた歩を止めて、八重は庭に視線を滑らせた。辺りは闇に溶け込んでいる。その中で、桜の花だけが白く目に痛い。

「姫様?いかがなされました」
「……いや」

 庭に向けていた視線を前に戻すと、八重は再び歩(ほ)を進める。そんな彼女に、二人の女房は困惑しながらも後についていった。
 自室に着くと、すでに燈台へ火が灯されて辺りは暖かい光に照らされていた。女房達が御簾(みす)を下げているうちに、八重は畳に座る。

「梅、橘」

 名を呼ばれた二人の女房は、御簾を下げていた手を止めて、八重に視線を送った。

「私は疲れた。今宵の夕餉はいらぬゆえ、しばらく一人にしてくれぬか」

 突然の言葉に、二人は瞠目(どうもく)する。

「で、ですが」
「姫様、もしや体調がすぐれませぬか?」

 梅は焦ったように、橘は冷静な声音で八重に問う。八重はゆるゆると首を振った。

「ただ疲れただけじゃ」

 これ以上話す事はないというように、八重は間近に置いておいた書物を手にとって開く。そんな八重に、橘は軽く息を吐いた。こうなった主は言う事を聞かないと知っているからだ。

「分かりました。ですが何かございましたら、いつでも私どもをお呼び下さいまし。行きますよ、梅」

 眦(まなじり)を下げた梅は、八重と橘を交互に見やって肩を落とした。

「…はい、分かりました。姫様、本当にいつでも呼んで下さいね」

 梅と橘は御簾と帳を全て下げ終えると、下がっていく。二人の気配が無くなると、八重は開いていた書物を閉じた。音もなく立ち上がると、妻戸を開けて濡れ縁に出る。ひんやりとした空気が肌を撫でた。
 掻き消えてしまいそうな上弦の月から、細々とした光が庭を照らしている。深く暗い闇に全てが呑みこまれているようだ。その中で桜の花だけが闇に呑まれる事もなく、白い色を滲ませている。たゆたう霞も闇色に染まり、まるで彼岸(ひがん)と此岸(しがん)が溶け合ったような世界が広がっていた。
 八重は音もなく板張りの簀子に腰を落とすと、感情の覗(うかが)えない瞳を庭に向けた。



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