剣花伝

□第一章 咲き初めに
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   四

 兼光達の話は、思っていたよりも時間がかかったらしい。いつの間にか太陽が頭上に昇っている。
 荷づくりをすべく屋敷を出た高遠は、陽光の眩しさに目を細めた。そして、腰に感じる慣れない重さに進めていた歩を止めた。視線を落として、もらったばかりの太刀に手を添える。確かな存在感に高遠は苦笑した。
 自分がこんな、霊剣と呼ばれる様な物を遣いこなせるとは到底思えないのだ。思えないが、何故か妙に手に馴染む気がしてならない。良く分からない感覚に困惑しながら、高遠は後程ゆっくり太刀の感覚を確かめようと決めて、再び歩を進めた。
 家に戻った高遠を、婆様と諭平が心配げな表情を浮かべて待っていた。そんな二人に困った様に笑うと、高遠は屋敷で起きた事を全て話した。
 静かに聞いていた二人は、高遠が話し終えると小さく息を吐く。婆様は、いまだ信じられないというようだ。そんな婆様の感情が分かる高遠は、苦笑して自分の頭に手を置く。そうして、思いのほか真剣な表情を浮かべた諭平に気付いた。

「爺様?いかがなされました」

 高遠の問いに諭平が目を伏せる。

「いや。それよりお主、その国杜剣は遣えるのか」

 高遠は頷くと、太刀を引き抜く。透明な輝きを放つ刀身が顕わになった。その太刀を眩しそうに諭平は眺める。

「……そうか。ならば、わしから何か言う事は無い。姫様を必ず護るのだぞ」

 射抜くような諭平の視線を受けて、高遠は姿勢を正す。

「はい。この身を賭してお護りいたす所存にござります」



 陽も沈むだろうという頃、荷づくりを終えた高遠は家の裏手にいた。
 冷たい風が、高遠を撫でる様に吹き去ってゆく。葉の擦れる音が、さわさわと耳に届く。遠くで人が動く気配を感じる。その全ての感覚を全身で感じながらも、高遠は意識を一つに集中させていった。
 高遠が微動だにもしないで構えているのは、国杜剣だ。夕陽を受けて、刀身が橙色に染まっている。
 高遠の意識が集中すればする程、辺りの空気が緊張に張り詰めてゆく。緊張が最高潮に達した瞬間。高遠は何の前触れも無く、静かに一歩踏み出した。
 刀身が弧を描く。音も無く刃を滑らせて、宙(そら)を断つ様に振り抜いては、また振り上げる。高遠が諭平から教えられた型だ。太刀を振る度に橙色の光が奔る。全身を使い、体重を乗せた一撃一撃は鋭く重い。見る者を圧倒させるような太刀筋だった。
 ぴたりと、正眼の構えで太刀が止まる。玉の様な汗が滴り落ちて、土に染み込んでいた。高遠は荒い息をつきながら衣の袖で汗を拭うと、家に戻ろうと振り返って動きを止めた。

「や、爺様。いつからそこに?」

 気配を消していたのだろう。いつの間にか諭平が背後に立っていたのだ。いまだ高遠にも、諭平の消した気配を感じる事が難しい。それが今の様に集中しているのなら尚更だ。

「うむ。始めからだな」

 高遠は頭を掻いた。やはりまだまだ諭平には太刀打ち出来そうにない。

「少し、迷いがあるか?」

 思っていた事を言い当てられて、高遠は目を伏せる。あの時。八重に太刀を授けられた時、高遠は覚悟を決めた。その思いが変わる事は無い。だがやはり迷うのだ。己の様な者が、本当に八重の護衛などに就いて良いのか、と。徒人の自分に八重を護れるのか、と。

「よし、今日はわしが相手をしよう」
「まことですか!」

 高遠は弾かれた様に顔を上げた。ここ最近、諭平と打ち合う事が無かったのだ。
 予備に準備していた木刀を手にすると、諭平は高遠の前に立った。諭平は特にこれといった構えはしない。冷たい風が二人の間を通り抜けて行く。それが合図だった。高遠は意識を集中させて、諭平へ半歩にじりよる。だが、それが限界だった。諭平から、目に見えない圧迫感を感じるのだ。踏み込む為の隙を探すが、見つからない。じわりと高遠に汗が滲む。
 諭平は自分に対して、本気で対峙しているのだ。いままで何度も諭平と打ち合った事はある。だが果たしてここまでの威圧感を感じた事があっただろうか。
 滴る汗をそのままに、高遠は生唾を飲み込んだ。諭平の威圧感はもう、高遠が踏み込む隙を窺うなどという状態では無かった。一歩でも動けば、いや、身じろぎ一つでさえしてしまったら、諭平に打ちこまれてしまうような気がする。高遠は動く事が出来なくなっていた。ただ、対峙している状態を維持するだけで精一杯なのだ。
 どれくらいそうしていただろうか。汗をだらだらと垂らしていた高遠の足が震えて、ついに立っている事が出来なくなった。高遠がくず折れる刹那、諭平から発せられていた、息も詰まる程の威圧感が消えさる。土に膝を着いた高遠は、荒い息を吐いた。辺りはいつの間にか真暗くなっている。何度か深呼吸をして息を整えると、高遠は漸う立ちあがった。
 やはりまだ、諭平に打ち込む事は出来なかった。だがそれでも、高遠は確かな手応えを感じていた。

「少しは迷いを断てたか」

 諭平が問う。ゆっくりと首を縦に振ると、高遠は手にした国杜剣を握り直した。いつのまにか太刀は、まるで今まで遣い込んできたかのように高遠の手に馴染んでいる。
 八重の護衛に就く事を、もう自分は迷わないだろう。



 さらさらと、白い月明かりが降っていた。
 細い月にかかった薄雲がゆっくりと流れていく。桜の蕾が夜闇にぼんやりと浮かび上がっている庭を見つめながら、八重は濡れ縁に座っていた。
 まだ冷たい風が頬を撫でる。艶やかな黒髪がはらりと流れた。八重は何を言うでもなく、深い水底の様な瞳を湛えて、ただ一人そこに在るだけだ。
 人形の様に身じろぎ一つしなかった八重が、ふと視線を下げる。己の両手を見つめて、そっと瞼を閉じる。微かな吐息が小さな唇から漏れた。

「……なにゆえ、私は」

 そっと感情の無い声で呟いて、空を仰ぎ見る。ちょうど、薄雲の切れ間から月が姿を見せた所だった。
 風がそよぐ。さわさわと辺りの草木が騒いだ。まるで何かを待ちわびていたかのように。
 八重は衣擦れの音をさせて立ち上がると、背後の妻戸に手をかけた。そっと開けて音も無く部屋に入る。その刹那。微かな山吹の香りが、八重に届いた気がした。




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