剣花伝

□第一章 咲き初めに
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   三

 朝の柔らかな光が差し込み、里を囲む遠くの山々が真っ白な霞に包まれている。草木の葉には、露がしらしらと輝いていた。いまだ冬のような澄んだ空気が肌を刺すが、青々とした香りが高遠の鼻をくすぐる。とても気持ちのよい朝だった。
 いつものように体を伸ばそうとして、激痛が全身に走る。反射的に体を曲げた。

「っつ」

 息を詰めて耐えていれば、しばらくして痛みは引いていく。昨夜の妖との攻防を思い出して、高遠は息を吐いた。骨は折れていないようだが、打撲にはなっているらしい。任に差し支えなければよいが、しばらくは痛みが続きそうだった。
 痛みを紛らわせるように、汲んだ井戸水に手をひたす。身を切るような冷たさを感じたが、かまわず顔を洗った。

「高遠、傷の具合はどうですか?」

 したたる滴を軽く手で拭って、高遠は声のした方へ向き直る。戸口に立つ人を見とめて笑みを零した。

「婆様、そんなに心配なさるほどではありませぬ。少し体を打ち付けた程度です」
「あなたが大丈夫だと言うのならいいけれど……」

 高遠の言葉にもまだ安心しきれないのか、婆様は苦笑をもらす。

「担ぎ込まれてきた時はお主、死んでおるような青白い顔をしておったのじゃ。あまり無理はせん方がよいぞ」

 婆様の後ろから、同じような苦笑を零しながらやってきたのは爺様だ。高遠は気まずそうに頭をかいた。

「いや、爺様には面目もありませぬ」

 昨夜、高遠は妖が姿を消した後、不覚にも気を失い、満四郎が家まで運んでくれたらしい。気がつくと家にいて、婆様と爺様が心配そうにのぞきこんでいたのだ。己の不甲斐なさに、深いため息を零した。
 高遠に剣の使い方を教えてくれたのは、爺様だ。
 本当の名を田村諭平(たむらのさとひら)と言い、太刀を持たせれば右に出る者はいないという程の遣(つか)い手だ。数年前まで隋身を束ねる役職に就いており、年齢を理由に辞したが、今でも腕は鈍っていない。そんな彼に師事を受けた高遠にとって、太刀まで折ってしまった今回の件は、容易く看過出来る事ではなかった。

「そう言うでない。そなたの活躍、屋敷の者から聞いておるぞ。あの妖に一太刀浴びせたのは、高遠と満四郎殿だけであったというではないか」
「そうですよ。一歩間違えれば、あなたも打撲では済まなかったかもしれないのです」
「あれは、陰陽師殿のご助力あればこそ。俺の力ではありませぬ」

 二人の言葉は素直に嬉しい。だがやはり、高遠の気分は晴れなかった。そんな高遠に、二人はやれやれと顔を見合わせる。その瞳は優しげに細められていた。
 その時だ。戸を叩く音がして、三人は首をかしげた。


「そなたが田村高遠か」

 やってきたのは一人の男だった。男は志麻遠乃介(しまのとおのすけ)と名乗った。身なりから屋敷に仕える家人(けにん)だと分かるが、高遠には彼がやってきた意図が分からない。爺様と婆様も分からないようで、成り行きを見守っている。

「はい。ですが私にいったい何の御用でしょうか」
「いや、実はな、兼光(かねみつ)様がじきじきにそなたに会いたいと申されておられるのだ」
「兼光様が!?」

 藤森兼光。八重の父であり、この里を治める豪族だ。高遠にとっても主にあたる人物だが、低位であり一介の兵にすぎない自分が、易々と会えるような方ではない。

「うむ。そなたの傷の具合にもよるが、動けるようであるならば、今日にでも来てほしいとも申されておる。体調はいかほどか?」
「は、はい。打ち身で済みましたゆえ、私はいつでも参上できる次第です」
「そうか、それは良かった。ではすぐにでも準備をされよ」
「いまからですか」
「うむ」

 志麻の態度に、高遠は微かな違和感を覚える。どこか落ち着きが無く、こうしてここで会話している事すらもったいないというように見えるのだ。主である兼光からの任に緊張でもしているのだろうか。だが、これ以上説明するつもりは志麻にないらしく、口を閉ざして視線で支度を促してくる。高遠は立ち上がると、三人へ退出の礼をして部屋の奥へと消えていく。
 庭に咲いた山吹の、控えめな甘い香りがしていた。


 しずしずと前を歩く女房について、高遠は濡れ縁を歩いていた。
 一緒に来た志麻は門前まで来ると、この橘という女房に取り次いで、別の用があるからといなくなってしまった。
 一言も口をきかない彼女に居心地の悪さを感じながら、高遠はそっと息を吐く。涼しげな風が頬を撫(な)でていった所で、橘の歩が止まった。

「兼光様。田村高遠殿をお連れ致しました」
「通せ」

 橘に促されて、高遠はどうしたものかと迷う。彼女が指すのは廂(ひさし)のさらに奥、主の私室である母屋(もや)だ。高遠のような身分の者が簡単に入れるような場所では無い。

「そのようにかしこまらず入って参れ。今日は個人的に呼んだのだ」

 兼光の言葉に、高遠は覚悟を決めて格子をくぐる。母屋に足を踏み入れて、あまりの驚きに声を上げそうになった。
 部屋には兼光だけでなく、八重まで茵(しとね)の上に座していたのだ。
兼光は貴族というよりも武士のような気質を持った、豪胆な男だった。御簾の向こうにいる事はほとんどない。彼の性格を表すように、八重も裳着(もぎ)を済ませたからといって、御簾の向こうにずっといる姫ではなかった。だが、さすがにこうして間近に会って話す事は無かったのだ。高遠が驚くのも無理は無い。動揺をなるべく面に出さないようにしながら、円座の上に腰を降ろした。
 そんな高遠を強い眼差しで見つめながら、兼光が口を開く。

「まずはそなたの功労、見事であった。褒めてつかわす」
「……ありがたく存じます。ですが、あれは陰陽師殿と静平殿あればこそ。私の力ではありませぬ」

 言いながら昨夜の事が思い起こされて、胸が重くなるのを感じた。高遠にとって、あの妖を退治出来なかった事が口惜しく、思い出すたびに己の不甲斐なさに腹が立つのだ。

「ふむ。やはり静平の言っていた通りの男のようだ」

 ぽつりと、兼光が呟く。その言葉に高遠は下げていた視線を兼光に向けた。

「早朝、静平を呼んだのだ。そこで、そなたの事を聞いた」
「私の事、ですか……」

 何故か、嫌な予感しかしない。

「うむ。高遠は剣の腕は立つし実直な男だが、己の実力を分かっておらぬたわけだと。そういえば、唐変木(とうへんぼく)だのなんだのとも呟(つぶや)いておったな」
「……」

 どうやら好き勝手言ったらしい。じわじわと腹の底から怒りが湧いてきて、次に会ったら拳の一つは見舞ってやろうと、高遠は心に決めた。

「はははっ!高遠よ顔に出ておるぞ」
「や、これはかたじけのうございます」

 高遠は頭を押さえた。

「さて、戯(たわむ)れはこのくらいにして、そろそろ本題に移るとしよう」
「はい」

 高遠は居住まいを正して兼光を見た。厳しい顔つきをした主に、気持ちが引き締まっていくのを感じる。だが、その後に聞いた事は、予想だにもしない言葉だった。

「田村高遠、そなたの実力と人柄を見込んで、頼みたい事があるのだ」
「頼みたい事、でございますと?」
「うむ。高遠も八重が常々、妖に狙われておる事は知っておろう。日ごろから陰陽師の結界にて守護を施しておったが、こ度の妖には今まで通りの守りで守りきれるとは思えぬ」

 高遠は頷いた。あの時、確かに妖は結界に阻まれた。だが、結界があると知っていたならば、同じような結果になったであろうかと思う。恐らく、意表を突いたからこその結果だ。それを兼光も分かっているのだ。

「そこでだ、そなたには八重を守るため、常に傍にあって仕えてもらいたいのだ」
「は?」

 突然の言葉に、頓狂(とんきょう)な声が出た。失礼だと思いつつも、まじまじと兼光を見つめるが、その表情は冗談を言っているようには見えない。さすがに動揺を隠す事は出来なかった。

「私に、姫様の護衛をせよと申されるのですか!?」
「うむ。あの妖がいつ襲ってくるとも知れぬ。屋敷にそなたの部屋を用意いたそう」

 眩暈がするとはこの事だ。

「兼光様、お戯れが過ぎまする」
「高遠、私が戯れでそのような事を言うと思うか」

 高遠は狼狽した。自分のような一介の兵を姫の護衛にするなど聞いた事が無い。

「何もずっとという訳ではない。八重の祝言を無事終えるまでだ」

 祝言、と高遠は心の内で呟く。
 八重の祝言が、十六の誕生日に挙げられる事は随分前から決まっていた。この里に暮らす者なら誰でも知っている事だ。十日後に控えて、里内もどこか浮足立ってもいる。どこに嫁ぐのかまでは分からないが、間違いなく殿上人(てんじょうびと)だろう。

「それにな、これは八重が望んだ事でもある」

 驚いて、高遠は八重を見やった。澄んだ水底を思わせる瞳が、自分を見つめている。紅を引いたように、濡れた唇。雪のように白い面には、さらりと、濡れ羽色の髪がかかっている。こんなにも間近で彼女を見たのはこれで三度目。こんな状況だというのに、高遠は変わらない八重の美しさに見惚れていた。

「それでもそなたはまだ、戯れだと言うか」
「……いえ」

 言いながら、目を伏せる。
 迷う。本音を言ってしまえば、高遠も八重の傍に仕えたい。己の手で守りたいと思う。それは幼い頃の無邪気な夢でもあったし、その為に血の滲むような努力をして、剣の腕を磨いてきたのだ。相手が徒人ならば守りきる自信はある。だが、相手は人ならざる者だ。見鬼の才を持たない自分が、いったいどこまで役に立つというのだろうか。

「高遠」

 澄んだ声が己の名を呼ぶ。はっとして、高遠は伏せていた視線を八重へ向けた。

「そなたは私の護衛は嫌か?」
「まさか、そのような事あるはずがありませぬ」
「なれば、高遠は今から私の護衛じゃ」
「!」
「ゆくぞ、高遠」

 言い終えると、八重は立ち上がって部屋を出て行ってしまった。困ったように兼光へ視線を向ければ、こちらも困ったように笑っている。そうして、視線で後を追うよう促された。ここでこうしていても何にもならないだろう。高遠は立ち上がって、八重の後を追って行く。
 一人、部屋に残された兼光は、ゆるゆると息を吐きだした。

「八重を、頼むぞ。高遠……」

 吐息と共に零れた言葉は、春の暖かな風に攫われて消えた。




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