剣花伝

□第二章 思ふ心は 花曇り
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   一

 琴の澄んだ音色が、たゆたうように聞こえていた。
 まるで音の触れた所から大気が浄化されていくような。そんな美しさを持った音色だ。
 高遠は進めていた歩を止めると、頬をゆるめて軒下から空を見上げた。蒼い空に真白い雲がたなびいている。真上に昇った太陽から下りてくる陽射しは柔らかく暖かいが、ゆるやかに吹き抜ける風は冷たかった。だが、高遠にはそれが心地よく感じられる。大気と同じように、身の内から浄化されていくような気分だった。
 兼光に八重の護衛を任されたのが昨日。今は与えられた自分の部屋に向かっている所だ。瞼を閉じて音(ね)に身をゆだねながら、高遠は思う。たった一日程度しか経っていないというのに、あの妖を退けてから随分と変わったものだ、と。
 一介の兵であった自分が、まさか八重の護衛になるなど思いもしなかったのだ。知らずうちに腰に佩(は)いた太刀を握りしめていた事に気づいて、高遠は苦笑した。
 ゆっくりと頭(かぶり)を振って歩きだそうとした時だ。角の先から聞こえてきた言葉に、先ほどまでの心地よさが全て吹き飛んだ。

「おお、今日も姫様が琴を弾いておられるぞ」
「まことじゃ。だがあの無表情で弾いておられるのだろう。感情の無い者に、楽の事が分かるとは思えぬ」
「姫様は妖が見られる鬼姫。楽の事が分かるはずも無かろうて」

 男二人の笑い声に、頭が熱くなる。高遠は一気に角を曲がりきって、二人の前へ躍り出た。
 突然現れた高遠に二人はぎょっとする。目を泳がせたかと思うと、天気がいいだのなんだのと言いながら、足早に高遠の横を通り抜けていった。それを目で追いながら、高遠は小さく嘆息した。

「蜘蛛の子を散らすとは、この事だな」

 呆れたような笑みを浮かべて、入れ違うようにやってきたのは満四郎だ。

「その通りだな。……それにしても、何故お前がここにいるんだ?」

 首をかしげる高遠に、満四郎はにやりと笑う。

「実はな。俺も姫様の護衛になったのだ」

 驚いたのは一瞬の内だった。すぐに納得する。

「そうか」
「なんだ、あまり驚いていないな」
「流石に護衛が俺一人だとは思っていなかったからな。それに、昨日の兼光様の申されようでは、お前が何か命を受けている事は容易に想像もできよう」
「やれやれ。今度は驚かせるだろうと、兼光様に黙っていて頂いたのだが意味が無かったな」
「おい、俺を驚かせる必要などないだろうが」

 じとりと睨むが、満四郎はどこ吹く風だ。今度は深いため息を吐くと、高遠は歩き始めた。

「満四郎も護衛ならば、俺と同じように部屋があるのだろう?そろそろゆかねば、女房殿に怒られるぞ」
「おお、それは困る」
 穏やかな日差しの中を、二人は足早に連れだって歩き始めた。




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