乱世英傑
□REGLET
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『ああ、それはそれで。』
と 思ってしまった。
「待ちなさい、―――!!」
追っ手が来ると知っていて、逃げた。
「逃げられるとお思いですか、――!」
幾つかの山を越え、馬を乗り潰しながらも走った。冷たい空気に、息をするたび鉄の匂いが混じる。
咳込むと切れそうに痛い喉。
転びかける足に反して、追う声が近くなる。
追い付かれた場所は、よりにもよって定軍山―――。
この名を呼ぶ声は、1番追って来て欲しくなかった人のもの。
目の端に捉えた木の虚に飛び込んだ。
息を殺して『その時』を待つ。
握り締めた外套の端を、掌から血の気が失せるまで力を込めた、その指が震えていた。
二つの勢力。
私は世に敵対する勢力に身を寄せていた。それは兄――義兄がいるから。
けれど、私はそれが引っ掛かっていた。…何故私はこの場所にいるのだろう、と。
私は自分の信じる事をしたいと思っていた。それが何故?義父ももういない世界、義父が正しいと思っていたのに、彼がいない今私は何をしているのだろう?
―――逃亡は 罪。
知っていて、私は馬を盗んだ。
「――。」
名を呼ぶ声が、すぐ近くに。
「……将兵ともあろう方が、敵前逃亡など…美しくありませんよ」
その声は穏やかで。
「今なら、あの方も罪には問わないそうです」
「………。」
優しい声。
温かな言葉。
だいすきなひと。
「………。」
「…貴女一人では、行く宛も無いでしょう?」
「…一人で、暮らしていこうかと」
「不可能です。…貴女はあの隊から逃亡した。追っ手がつくのです。…一人で生きていける訳がありません」
虚の中で膝を抱え、目を閉じていた。一思いに殺さないのは…情か、それとも?
聞こえる声に耳を澄ませて、静かに流れる最期を噛み締めていた。
「……早く終わらせて」
「…帰りましょう」
「私は逃亡兵ですよ」
「同時、あの方の義妹姫殿です。…私は貴女を殺せはしない」
「―――っ。」
一思いに殺さないのは
拷問のひとつで。
「……何故貴方なんですか」
「……。」
「追って来た、のは。…何故他の将兵でなく…貴方、なんですか…」
私らしくもない、と。気付いて苦笑を漏らしたのはすぐ後。指の震えさえ、今では可笑しく感じる。
違うのだ。愛する人に命を絶たれるなど、望んでもなかった。同時に、それがとても甘美なものだと思い知った。
声が、最期に紡ぐ名前は
瞳が、最期に捉える姿は
指が最期に触れる相手は――
「貴女が拒んだ所で…私は貴女には従いません」
「…わたしは」
貴方にこの命
捧げられるなら
それはそれで
幸せだ。
「………貴方を、お慕いしております…」
「―――」
「ですからもう、苦しめないで」
何度も願った。
貴方に私を刻みたいと。
この世界、貴方の傍に居る事叶わなくなる前に、貴方に私を忘れられなくなるように。
愛故の病みだというならば受け入れよう。…貴方が私を想うというなら。
「……貴女は」
「……あいしてます」
「何故強情ばかり張るのですか」
この指が貴方に触れるたびに、その場所から甘い熱が広がる。
熱は頭さえも支配して、私は貴方以外を考えられなくなるのだ。
「……連れて帰ります」
その力強い腕が延びて、この手首を掴みあげ。
虚より出された肌に、外の空気は冷たく感じて目を細めた。
「敵前逃亡は罪。ならば、その罪は償って頂かないと」
この首を、肌を、緩やかに滑る指が顎を捉えた。軽く下顎を引かせ、真っ直ぐに見つめる瞳は逸らされる事も無く。
あまりに違いすぎる身長差に、見上げるしか無くなったが――それも、焦点が合わないのか彼がぼやけて見えた。
違う
「……妹姫を殺める訳にはいきません」
―――これは、涙か。
「…私は」
有り得てはならない思慕に抱くのは後悔。
出逢った事を嘆くには、この混沌とした世界はあまりにも不利過ぎる。
頬に涙が滑り落ちたのは
その防具と武器を纏った胸と腕に、抱き留められた時だった。
終