<事件経過>
■昭和63年9月頃
家庭内暴力で両親が立ち入れない聖域となった湊伸治の部屋は、9月頃から、中学時代の先輩や後輩が集まる格好のたまり場となった。
■昭和63年10月
A宮野裕史が運転する車にB小倉譲とC湊伸治、それに湊の中学時代の同級生の4人が乗り、自転車に乗った制服姿の女子高校生に対して「道を教えて」と声をかけた後、ナイフで脅しホテルで輪姦。
■昭和63年10月20日頃
宮野が運転する車に小倉と湊が乗り、宮野の顔見知りの女子高生をホテルに連れ込んで、強姦。
■昭和63年10月25日
宮野と小倉でひったくりで12万円を稼ぐ
■昭和63年11月8日19:00過ぎ
宮野が運転するシルビアに小倉と湊が乗り姦淫相手を探して走行中、20時頃、足立区内で自転車で帰宅中の19歳の女性をドライブに誘う。誘いに応じないとみるや車を横付けし行く手を阻み、小倉が自転車の鍵を奪って女性を無理矢理後部座席に乗せた。 20時30分頃、常磐高速道路に入り女性を脅し観念させ21時30分頃ホテルへ連れ込み A,C,Bの順に強姦する。
■昭和63年11月25日18:00頃
宮野は湊の自宅に行き、湊に「今日は給料日だから金を持っているやつが多い。ひったくりに行こう」と誘った。湊は友人からバイクを借り、2人で引ったくりをした。
■昭和63年11月25日20:00過ぎ
埼玉県三郷市内をバイクで走行中、アルバイト先から自転車に乗って帰宅中だった埼玉県三郷市高州1丁目県立八潮南高校3年被害者女子高生(匿名)17歳を見ると、宮野は湊に「あの女、蹴れ。あとはうまくやるから」と命令した。湊は、バイクで女子高生に近づき、左足で女子高生の右腰を蹴って、角を曲がり様子を見ていた。バランスを失った女子高生は自転車に乗ったまま転倒。溝に落ちた。そこへ宮野が近づき「大丈夫ですか」と声をかけ、助け起こすと「今、蹴飛ばしたのは気違いだ。俺もさっきナイフで脅かされた。危ないから送ってやる」と声をかけた。宮野は、女子高生を近くにある倉庫の暗がりで「自分はさっきの奴の仲間で、お前を狙っているヤクザだ。俺は幹部だから俺の言うことを聞けば命だけは助けてやる。
SEXさせろと脅迫し21:30頃、タクシーでホテル「ウィングス」(足立区綾瀬6-25-4)へ連れ込み強姦。

■昭和63年11月25日23:00頃
Aは自宅に戻っていたCに電話をかける。Cの家にはBとDが居た。この日Cの父親は3日間の社員旅行で沖縄に出かけていたが母親と兄が居た。
■昭和63年11月26日0:30頃
女子高生をCの自宅(足立区綾瀬7-8-6)に監禁する事にした。
■昭和63年11月28日
Aは「いいモノを見せてやる」と言って呼び出された中学時代の友人E(中村高次  17歳)とF(伊原真一 16歳)が深夜に女子高生を輪姦した。女子高生は抵抗したが顔面を押さえつけられていたため叫び声を上げることができなかった。陰毛を剃刀で剃られ、更にマッチの軸木を陰部に挿入し火をつけ陵辱に及び女子高生が熱がるのを見て興じた。Cは緊張して出来なかった。
■昭和63年11月30日21:00頃
Aの提案で、被害者の母親・親友に「友達の家にいるから捜索願は出さないように」と公衆電話から電話させる。 この頃、Cの母親は被害者を目撃している。Cの母親が台所にいたとき、玄関から「今晩は」と少女が連れられて入ってきた。「もう遅いから帰りなさい」と言ったが返事をせず二階に上がって行った。Cの父親もCが降りてきた時「早く返せ」と言った。翌日、あの子は帰ったと言われ、Cの両親は疑問を抱かなかった。
■昭和63年12月3日18:00頃〜19:05頃
A,Bが共謀で自転車で通行中の女性から現金7万2300円及び物品27点をひったくる。
■昭和63年12月3日21:30頃
Aは自転車で通行中の女性から現金約2万6000円をひったくる
■昭和63年12月5日20:35頃〜21:30頃
A,C,Gと共謀で2回にわたり自転車で通行中の女性から現金約1万9000円及び物品27点をひったくる。
■昭和63年12月7日2:50頃
A,Bが共謀で自転車で通行中の女性から現金約3万円及び物品7点を窃取。
■昭和63年12月上旬
一週間後、Cの母親がトイレを掃除した際、生理用品があったため二階に上がった。二階にはD渡邊泰史と女子高生がいた。この時女子高生と言葉を交わしており、住所は埼玉で、高校三年生、就職は決まっている、と言ったという。その後、少年C・その母親・少年Dは夕食を共にしており、最中に帰宅したCの父親は「ガールフレンドか。オレにも紹介しろよ」とCに声をかけるが無視される。Cの母親によれば、食後、テレビを見たりファミコンをやって仲良さげにしており、少女がタバコを吸っていたという。 Cの母親の説得により帰宅することになるが、外にはCとCの兄が待機しており失敗。結局、両親が寝静まるのを待って電柱をよじのぼり二階のCの部屋に戻る。帰宅した Cは、関係ないことをするなと母親を数時間にわたり殴る。
■昭和63年12月上旬
昼夜に関係なく女子高生の身体を弄び、気を失うとバケツの水に頭を漬け気を取り戻させ、また犯すという行為を繰り返していた。その間交代で見張りを続けていた。 湊伸治の母親が二階にあがり、渡邊泰史と一緒にいた被害者に対して「どうしてここにいるか」を尋ねるが、被害者は答えず。翌日午後7時過ぎ 母親が湊伸治の部屋を覗くと被害者と小倉譲がいたので、もう一度、「すぐ帰りなさい。お父さん、お母さんが心配しているから」と言ったのだが、被害者は動かなかった。(脅されていて動けなかった)
■昭和63年12月上旬
16:00頃少年達が夜遊びに疲れて、湊の家で昼寝をしていたすきに被害者は、2階から階下の居間に降りて110番したが、そのことを宮野裕史に発見され、暴行を受ける。警察から逆探知でかかってきた電話に宮野が出て「何でもない。まちがいです」と返事をした。 被害者の行為を裏切られたと感じた少年達は、以後被害者に対して顔面を殴ったり、足首にライターのオイルをかけて燃やすというリンチを繰り返して行うようになった。シンナーを吸わせたりウィスキーや焼酎を飲ませて楽しんでいた。 Aは武田鉄矢が歌う海援隊の「声援」の歌詞に”がんばれ がんばれ”があり、いじめている時に唄いながら「お前も歌え」と言って歌わせた。女子高生は小さな声で「がんばれ がんばれ」と自分に言い聞かせている時があった。 リンチによって出来た怪我により、少年たちは、ますます被害者を解放できなくなるとともに、火傷が化膿して、放つ異臭により、被害者を疎んじるようになり、その処分にこまるようになった。 宮野が小倉、湊、渡邊を連れて、宮野の所属する暴力団の上部団体の忘年会に出席、宮野は組員達に「会長が自分で、小倉譲が組織本部長、湊伸治は事務局長」と紹介。 この頃からシンナーを売り出す。
■昭和63年12月5日
東京中野駅構内で電車の追突事故が起きた。Aは女子高生に「あの電車にお前の父親乗っていて死んだってTVでやってた」とからかう。心理的に女子高生を追い詰める。
■昭和63年12月10日
女子高生は「家に帰りたい」と言う。Aは「家に帰ったら母親に何て言うんだよ」と言うと女子高生は「今まで新宿で遊んでました」と答えた。Aは「新宿で、学生服のままそんなに長く遊んでいられるかよ」と言って、殴る蹴るの暴行を加える。火傷の痕にライターのオイルをかけ火をつけた。熱がって火を消そうとするのが面白いと何度も繰り返した。
■昭和63年12月上旬
女子高生の小便で布団が濡れたことを理由にBとCが殴った。果てしなく続く殴打によって顔面が無残に腫れ上がり凹凸のない別人の顔になった。「なんだお前でけぇ顔になったなぁ」と言うと笑い声が響いた。暴行がエスカレートするに伴い女子高生に与える食べ物がなおざりになっていった。 Cの兄(17歳)の役目だったが12月末には1日に牛乳1本パン1枚与える程度だった。(監禁当初は出前を取ることもあった)トイレにも行かせず飲料用紙コップに排尿させ、その尿を飲ませたりした。女子高生は「何でもするから家に帰して」と必死に哀願するが全裸で踊らされたり、自慰を強要され、鉄棒を陰部に挿入して何度も出し入れされ、肛門に瓶を挿入させられた。 Cの両親は異常な気配に気付いていたが暴力を恐れ、2階の物音には耳を塞いでいた。上半身を裸にしてのベランダに出し、牛乳、水を大量に飲ませ、煙草を2本同時に吸わせる。両大腿部・膝・脛部等にライターオイルをかけて点火、熱がって火を消そうとすると手にも点火、火が消えると再度点火した。
■昭和63年12月中旬
被害者を輪姦した湊伸治の中学時代の友人に対して、些細なことから宮野、小倉、湊でリンチを加え、3週間以上入院する大怪我をさせた。
■昭和63年12月19日
Cの家にAが来て、被害者にライターオイルをかけ火をつける。再度にわたる火傷により傷が化膿し異臭を放つ。Aはその臭いが嫌だと言って寄り付かなくなった。臭気で Cの両親が気づくことを恐れ、階下のトイレを使用させず、紙パックに用を足させた。この時既に自力で立ち上がることができなくなっていた。
■昭和63年12月20日
A少年ら3人の他に女が1人やってきて、「化粧」と称し被害者の頬にマジックで髭を書く。この頃少年Cは、家に「面白いのがいる」と知人に公言し、100人程度は監禁について知っていたと見られ、裁判記録に出ているだけで10人が強姦等に参加している。度重なる暴行により、頬が鼻の高さを超えるまで腫れ上がり、目の位置が分からないほどになっていた。監禁当初、被害者が持っていた3000円で出前を取らせたり、Cが歯ブラシなどを買い与えたりしていたが、ケガや火傷が酷くなるにつれ、食事・風呂に対して気を配らなくなった。12月下旬までの食事はカップラーメン、パン、牛乳、卵など家にあったものを、 Cの兄が食べさせたが、それ以降からは衰弱したせいもあり1日に牛乳をコップ1杯飲ませるだけだった。
■昭和63年12月21日
もし開放されれば警察には何も言わない、信じて貰えるまで何でもする被害者が言ったため、「裸で踊れ」「気違いの真似をしろ」などと指示。
■昭和63年12月27日0:00過ぎ
A,B,C,DでAが運転する車で姦淫の相手を探して走行中、2時30分頃、帰宅途中の女性(19歳)を見つけ、自動車の後部座席に乗せしばらく走行した後に停車した車内において、Bが繰り小刀を左手に持ち、Aが果物ナイフを女の膝付近に突き付け、「ここまで来れば分かるだろう。男と女のやることだ」「先輩に女を連れてこいと言われたので、連れて行かなければならない。それが嫌なら俺たちとやれ」などと申し向けて女を脅迫し、その反抗を抑圧し、4時頃、ホテルへ連れ込み、A,B,C,Dの順に、強姦する。
■昭和63年12月28日
AとBとCの三人が夜中にCの部屋に入ると、被害者が腹部を押さえ倒れていた。Aの顔を見るなり、被害者は水が欲しいと頼んだ。Aは水・コーンスープ・ぶどうパンを渡した。部屋から出ることは禁止されていた。牛乳を飲ませたが吐いてしまう。その後、被害者がパックの尿をこぼしたとAは激怒。謝る被害者の下腹部を数十回殴打。
■昭和64年1月4日6:30
JR綾瀬駅近く雀荘で賭け麻雀をし10万円負けたAは苛立つ。 小泉今日子の「なんてったってアイドル」のテープをかけ、歌詞の中の「イエーイ」に合わせて被害者の脇腹に思いっきり殴打する。被害者は、声を出すと殴られるため、痛みをこらえて顔を歪めた。その表情を見て少年達は面白がった。鼻や口から血を流し血だらけの状態になった。顔面・腹部を殴打して転倒させ、顔面等を足で蹴り、倒れては起こし殴る。鼻や口から血を流している顔に蝋燭を垂らし、顔面は蝋だらけになった。さらにはパックの容器にさせた尿を飲ませた。被害者がステレオにぶつかり、全身を痙攣させ倒れたのを見て「仮病だ」とCが激怒。Aは鉄球を被害者の腹に落とし、大腿部、顔面をさらに殴る。殴り終わった後、反応しなくなったためライターオイルをかけ火をつけた。最初は動いたが最後には動かなくなった。暴行は2時間近くに及んだ。Aはリンチの途中で死を意識したと言う。リンチが終わったのが午前10時頃で、その後、被害者が逃げないように足をガムテープでぐるぐる巻きにすると4人でサウナに行った。宮野は、後に「ひょっとしたらあぶないんじゃないか、死んでしまうんじゃないかという気持ちが出てきたと思うんですが、鉄の棒で殴っても動かないんで」と述べている。
■昭和64年1月5日昼過ぎ
湊の兄(G)から小倉に「被害者の様子がおかしい」と電話がかかり、宮野、小倉、湊で駆けつけて見ると被害者は敷きっぱなしの布団で冷たくなっていた。 遺体の処理に困った少年達は遺体を毛布で包み旅行鞄に詰め込んだ。宮野は、後に「じゃあ、どうする」捨てようということになって、自分が劇画を読んでいて、ドラム缶の中にコンクリートを流しこんで、海に捨てちゃうという場面を思い出して、そのことがとっさに浮かんで、自分は前にセメントとか、そういう会社に勤めていたんで、作り方もわかるので「ドラム缶の中に捨てようということになりました」と述べている。 バックに詰め込んだ遺体は、宮野の家の前で、3人でドラム缶に入れコンクリートごと流しこんだ。近くの川に捨てようとしたが、小倉が「家が近いので怖い。化けて出るかもしれない」と反対して、東京湾に捨てることにした。 宮野が借りてきたワゴン車を運転して、東京江東区若洲15号地海浜公園整備工場現場空き地に行ったが、適当な場所がなく、道路脇の草むらに捨てた。 Aは以前勤めていたタイル工場に行き、モルタル砂・ドラム缶など調達。遺体をバックにつめ、Aの家の前でドラム缶に入れコンクリートを流し込んだ。この時、工場の元上司は人を殺したことに気づいていたとされている。 Aはこの時、長渕剛主演ドラマ「とんぼ」の最終回のビデオを探した。拉致された11月25日女子高生が楽しみにしていたドラマだった。監禁された為、最終回を見ることが出来なかったからビデオも一緒に入れようと思ったからだ。このことにAは「可哀想というより呪われたくなて・・・」と話している。 20時頃ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが恐くなってしまい、空き地にドラム缶を投げ出して帰った。
■昭和64年1月6日23:00頃〜7日2:30頃
A,B,Cは暴力団関係者の意を受けて結成しようとしたグループに、Gが入らなかったことなどに立腹して、手拳や椅子等で顔面、頭部、肩部等を多数回殴打する暴行を加え、約4週間を要する全身打僕の傷害を負わせた。
■昭和64年1月7日6:33
昭和天皇崩御。 14時36分小渕恵三官房長官により新年号「平成」を発表。
■平成元年1月8日
■平成元年1月23日
11月8日の強姦事件で婦女暴行容疑で宮野等が綾瀬署に逮捕される
■平成元年3月29日夕方
練馬少年鑑別所に東京都足立区綾瀬警察署捜査官2人が事情聴取に訪れる。少年達の自宅に女性の下着があったため窃盗の余罪があると思っていた。 Aを取り調べた際、捜査官がなにげなく言った「お前、人を殺しちゃ駄目じゃないか」という言葉に、他の3人が自供したと勘違いし「すいません、殺しました」と言った。驚いたのは捜査官だった。担当官は当初の目的であった余罪の窃盗に関する調書を取ることなく、半信半疑のまま、自供内容をたよりに、東京江東区若洲15号地海浜公園整備工場現場空き地へと向かった。現場にはひとつだけドラム缶が転がっていた。ドラム缶に詰められたコンクリの隙間から腐臭がしており、警察は305kgあるドラム缶をクレーンでつりあげ署に持ち帰った。
■平成元年3月30日
午後、警察署内でコンクリートを解体。中にはボストンバックに詰められ、掛け布団2枚にくるまれた女性の死体が入っていた。死後2ヶ月以上経過、腐敗が進行しており状態は悪かった。皮下脂肪の厚さは通常の6割程度で栄養失調状態。全身に殴打による浮腫(リンパ液が多量にたまり腫れ上がった状態)があり、死因は外傷性ショックまたは胃の内容物を吐いたことによる窒息死とされた。顔面が陥没・変形していたため、外見からの確認は困難だったが、指紋や歯などの照合から、11/25夜アルバイト先からの帰宅途中で行方不明になった埼玉県三郷市高州1丁目の県立八潮南高校3年生の少女(17)であることが確認。八潮市内のアルバイト先に行ったまま帰宅しないと吉川署に捜索願を出していた両親は、無事に帰ってくることを心待ちにし、父親は仕事を休んで行方を探していた。 検分した際、女子高生の死体は腐敗し、すでに親でさえ判別しがたいほどに変わり果てていた。女子高生の母は悲嘆の余り、病に倒れ、現在もなお精神科に通院加療を続けている状況である。手塩にかけて育て上げてきた一人娘を卒然として手許から取り上げられ、不安焦燥に居たたまれない長い日々を送らされた挙句、無惨にも殺害されるに至った両親ら遺族の被害感情は、極めて厳しく、被告人らに対し、激しく厳罰を求めており、女子高生の父は、当審証言においても、被告人らに対する原判決の科刑は余りにも軽過ぎるとして、強い不信と不満の情を切々と吐露している。女子高生は、被害当時、卒業を間近にした高校3年生で、すでに就職も内定し、将来への夢をふくらませていたものであるが、本件について、何らの落ち度もなく、たまたまアルバイト先からの帰宅途中、被告人Aに目をつけられたことから、事件に巻き込まれ、被告人らから長期間監禁され、堪え難い数々の暴行、凌辱を受け、遂に、凶悪、無残な犯行の犠牲になり、春秋に富む若い生命を絶たれたもので、まことに、あわれというほかなく、被害者自身の無念さはもとより、両親ら遺族の心情は察するに余りがあり、その被害感情の厳しさは十分に理解することができる。

Cは別の婦女暴行事件で逮捕され拘置されていたが、この事件で4月1日に再逮捕となった。D,E,F,G(Cの兄)も逮捕された。

【足立区綾瀬女子高生誘拐監禁集団リンチ虐殺コンクリート詰め死体遺棄事件の真相】

◆アルバイト帰りの女子高生を誘拐して不良仲間4人で輪姦
◆不良仲間の家に監禁し暴走族仲間十数人で輪姦、関係者は100人に及ぶ
◆おやつと称してゴキブリを食わせる
◆真冬に裸でベランダに出す
◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける
◆全裸にしてディスコの曲に合わせて踊らせる
◆自慰行為を強要
◆性器や肛門に鉄棒、瓶などを挿入
◆殴打し頬骨が砕け鼻よりも高く腫れ上がり顔面を見てでけえ顔になったと笑う
◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆い、両眼瞼に火のついたまま蝋燭を立てる
◆衰弱し自力で便所へ行く事もできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる
◆鼻口部から出血し崩れた火傷の傷から膿が出、室内に飛び散り凄惨な状況
◆素手は血で手が汚れるとビニール袋で拳を覆い、腹部、肩を力まかせに強打
◆度重なる暴行に耐えかねて、被害者は「もう殺して」と哀願
◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに殴打
◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。
◆膣を灰皿代わりにしてタバコの吸い吸殻も膣に入れる
◆揮発性の油を太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける
◆固まった血で鼻が詰まり、口呼吸しかできなかった
◆死んだのでコンクリート詰めにして放置
◆遺体の性器には、オロナミンCの瓶が2本突き刺さっていた
◆性器と肛門と顔面は完全に破壊され原型をとどめていなかった
◆腕や足は、重度の火傷で体液が漏れ出していた
◆あまりの恐怖に脳が萎縮して小さくなっていた
◆想像を絶するストレスに髪が抜けほとんど頭髪が無い状態
◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった

■平成元年4月
「週刊文春」
(1989年4月20日号)で加害者の少年達を実名報道した。
(担当だったのは当時社員だった記者勝谷誠彦、記事を通した当時の編集長は花田紀凱)は理由として事件が「あまりに凶悪であるため野獣に人権はない」と説明している。この報道をきっかけに週刊文春は売上部数ナンバー1になり、犯罪の低年齢化に伴う少年法論議に火をつけた。
■平成元年7月31日
東京地裁でA,B,C,Dの4人の初公判が開かれた。猥褻誘拐、監禁、強姦、殺人、死体遺棄などズラリと並んだ起訴事実に対して罪状認否を求められた少年達は「書面の通りです」と答えた。 BとCの弁護士は「傷害致死」を主張し、Aは「殺意はなかった」と答えた。 Aは初公判終了後、失神した。
■平成2年5月21日
東京地裁で検察側の求刑公判が開かれ、刑事裁判で過去に例を見ない最大級の厳しい言葉が並んだ。「本件は我が国の犯罪史上に措いても稀に見る重大且つ凶悪な犯罪」「被告人らの動機には酌量の余地が無い」「およそ常識では考える事の出来ない陵辱の限りを尽くしている」
■平成2年7月19日
東京地裁はAに懲役17年(求刑無期懲役)、Bに懲役5〜10年の不定期刑(求刑懲役13年) Cに懲役4〜6年の不定期刑(求刑懲役5〜10年の不定期刑)、Dに懲役3〜4年の不定期刑(求刑懲役5〜10年の不定期刑)の刑を言い渡したが、検察側は刑が軽すぎると控訴した。

判決文
残忍かつ極悪非道である点でおいて、過去に類例を見出し難く、重大かつ凶悪犯罪。動機はきわめて反社会的かつ自己中心的であり、被害者の女子高生はなぶり殺しにされたとしか言いようがなく、動機に酌量の余地はない。そして、被害者の両親の激しい怒りと悲しみと、社会に与えた衝撃や不安を強調し、被告人らの行動は人の仮面を被った鬼畜の仕業と断ぜられるを得ない。昭和63年11月25日から翌1月4日まで41日に渡って不法に監禁し、その間、同女に対し、ほとんど連日、筆舌に尽くしがたい殴る蹴るなどの暴行を加えた他、身体に火をつけて皮膚を焼くなどの、凌辱の限りを尽くし、精神的にも、肉体的にも衰弱の度合いを深め、最後には常識では考えられないような仕打ちまで受け入れざるをえず、助けを求めるすべもないまま、あえなく絶命し、揚げ句はコンクリート詰めにされて捨てられるなど、被害者の身体的および精神的苦痛苦悶ならびに被告者らへの恨みの深さはいかばかりのものであったかまことにこれを表現する言葉さえないくらいである。
「主文。被告人Aを懲役17年に、被告人Bを懲役5年以上17年以下に、被告人Cを懲役4年以上6年以下に、被告人Dを懲役3年以上4年以下に、それぞれ処する」 最後に裁判長は4人を立たせ、ひとりひとりの顔を見ながらこう言った。 「判決は以上の通りですが、事件を各自一生考えつづけてください」
■平成3年7月12日
東京地裁はA(宮野裕史)に懲役20年、B(小倉譲)に懲役5〜10年の不定期刑、 C(湊伸治)に懲役5〜9年の不定期刑、D(渡邊泰史)に懲役5〜7年の不定期刑を言い渡した。E(中村高次),F(伊原真一),G(Cの兄)の3人は少年院に収容された。
加害者4人の少年の両親は被害者に謝罪を申し入れたが受け入れられず「お墓参りをしたいので場所を教えて欲しい」という申し出も拒絶される。 Aの母親は家を売却した5000万円を被害者の遺族に渡している。 Bの父親は賠償用の積み立てを始めた。
■平成11年8月
小倉譲出所。
■平成12年
小倉譲、中国人女性と結婚。
■平成15年
小倉譲、中国人女性と離婚。
■平成16年4月17日
スポーツ新聞に16年前に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」をモデルにした映画「コンクリート」の記事が紹介される。
■平成16年7月3日昼過ぎ
東京渋谷のアップリンクファクトリーにて、映画「コンクリート」の公開。警視庁の刑事が、「映画を見せて欲しい」とやって来て、「いい映画だったよ」と感想を述べて帰って行った。その夜、女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人が再犯で逮捕されたニュースが報じられる。
知り合いの男性(27歳)を監禁し暴行を加えたとし、監禁致傷の疑いで埼玉県八潮市の神作譲(33歳)を逮捕した。この男は女子高生コンクリート詰め殺人事件で東京高裁控訴審で懲役5〜10年の不定期刑で服役し、出所したBであった。
事件は5月に発生。逮捕されたのが6月4日。

映画「コンクリート」(R指定)は平成16年7月3日〜7月9日に上映。
■平成16年7月28日
第一回公判の摘要

人定質問
 氏名 神作譲(かみさくじょう)
 生年月日 昭和46年5月11日
 本籍・住所 八潮市中央4−21−12
 職業 契約社員

起訴状朗読
 被告人は、平成16年5月19日午前2時ころ、東京都足立区花畑 6−6付近路上で、男性I(27)に対し「オレの女を取った だろう」「オレは人を殺したことがあるんだぞ」「なめてんのか。女を何処にやったか言え」などと申し向け、顔面を手拳で数回殴打し、太腿を何度も足蹴にするなどの暴行を加えた。その際、 用意していた金属バットを振り上げて「頭をカチ割られたいのか」などと脅迫した。 被告人は自分が運転する普通乗用車のトランクに被害者を監禁して、午前2時40分ころ埼玉県三郷市三郷1−8−7所在のスナックACBに連行した。入口ドアを施錠して「オレは人を殺した事があるんだぞ」などと繰り返しながら、被害者の顔面を手拳で殴打、太腿を足蹴にするという暴行を繰り返した。午前7時ころまで同男を逮捕監禁し、全治10日間の怪我を負わせた。

罪状認否
 神作は冒頭「どう言ったらいいんですか。細かいことまで言え ばいいんでしょうか」などと切り出した。裁判官から認否を促されると「起訴状には違うところがある。私が言ったとされるセリフは言っていない。バットを振り上げたりもしていない。スナックに行ってからは10分くらい顔を引っぱたいたりしていたが、その後、Iは缶コーヒーを飲み、自分も『午後の紅茶』を飲んだりした。午前7時ころまではそういう話し合いのような状態だった」などと容疑を一部否認した。 「逮捕監禁については認めるのか」と裁判官から確認を求められると「そういうことは自分には分からない」などと答えた。 暴行の事実は認め、スナックACBでの監禁は否認する趣旨のようだが、車での監禁に関する認否は不明。裁判官も問い質さなかった。

冒頭陳述
(身上・経歴)
 平成3年に懲役5年以上10年以下の不定期刑が確定し約8年間 服役。出所後、コンピュータ会社に勤務していたことがあるが、しばらくして職を離れ、暴力団に加入している。無職のような状態。 一時、結婚もしたが現在は離婚している。

■平成17年3月1日
東京地裁は神作譲に対し懲役4年(求刑懲役7年)を言い渡した。被告側は東京地裁での判決を不服をして控訴した。
■平成17年5月13日
神作譲は控訴を取り下げ、懲役4年が確定した。
■平成20年
主犯格A(宮野裕史)出所予定。
関西地方の保護司と養子縁組済み。


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