風さえもわたしを

□風さえもわたしを
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『だめだ。死んどる・・・』
遠い昔。
名前も知らない男のこの一言。
俺の人生は、進む方向をまるっきり変えてしまった。
それが、進むべき方向であったのか・・・?
それは、随分と時の流れた今でも、わからない。



「お兄ちゃん!!ねえ、ねえってばー」
8年前、俺に妹が生まれた。
当時5歳だった俺は、その小さな生き物が、とても不思議な存在に見えてしかたが無かった。
泣いては笑ってまた泣いて、時折俺のバイオリンをおもちゃのように振り回す。
(何だ、おもちゃだと思ってるのか)
そのくせして、怒ろうと思うとふといなくなる。
馬鹿なのか、賢いのか。
本当に、不思議で仕方なかった。
でも、今では逆だろう。
「お兄ちゃん!早くしなきゃあ、マジロが怒るって!!」
そういって、俺のコートの端を引っ張る。
「ねえ何で?マジロ、お兄ちゃんには怒んないじゃんっ!!何で嫌がるのーっ!?」
今では,妹にとって、いや、多くのまわりのひとから見て、俺は不思議な存在だろう。
そんな奴等が俺を理解しようとしたって、無理だし、無駄だ。
でも、きっと、俺を一番わかっているのは、妹だ。
(怒られないから、嫌なんだ、行きたくないんだ。・・・て、俺が一緒に行ってたんじゃあ、お前はいつまでも伸びないだろ…)
分かれよそれぐらい、と微かに呟き、むっくりと起きる。妹は全力で俺を連れて、俺は引きずられるようにして歩く。
「お前、一人で行けるだろー?俺はどうせ『おまけ』なんだから、頼む一人で行ってくれ」
マジロとは、真白恵。こいつのピアノの先生だ。
「またそー言うっ!!お兄ちゃん来ないと、マジロ泣くよぉー」
妹は、それでも嫌がる俺を強引に俺を家から連れ出す。
何故、俺がこんなに嫌がるのか?
そんなの簡単。
俺は、ピアノを習う必要が無いのだ。
「お兄ちゃん連れていかないと、わたしが怒られるんだからー!!」
よく響くアルトの声が、俺の背を押して、ぐいぐいと進む。
「ほらほら、早く乗って」
8歳児にしては大きすぎるママチャリにまたがって、後ろの荷物乗せを指差す。
「おい、いくら嫌な兄貴だからって、妹の後ろに乗れなんて言うなよ」
女の子の自転車に乗せてもらうなんて、あまりに惨めである。
「ほら、乗っけてやるから」
仕方ない、といったそぶりで椅子に座る。
「優しいお兄ちゃんっホ悪いんだけどね、急がなきゃ。もう25分。あと5分で着くかしらぁ?」
背後から、聞きなれた声が、いつもと同じように言った。
「ま、俺なら着くかもな」
いつものように、俺も返す。
俺の鞄を妹に預け、妹はそれを大事そうに抱えて座る。
『いつも』こうだ。
結局は、妹を後ろに乗せてこうやって全力で走る。
「行くぞ。落ちるなよ」
こうして、今日も俺――水瀬雄飛と、妹――水瀬奏は、世界的に有名なピアニスト、真白恵の家に向かっている。



俺は、ピアノを習う必要が無い。


何故なら、天才だから。
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