…したい10題

□愛したい
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「あまり根を詰めるな。少し休め。」
羽鳥は吉野にそう声をかけた。
だが吉野は「ああ」と生返事を返してきた。
多分その言葉の意味までは、頭に入っていないだろう。

吉野はあの事件の後、ずっとふさぎこんでいた。
だが今はそれがまるで嘘のように、必死に仕事をしている。
そしてついに、今月分もどうにか入稿できそうなところまで来た。
相変わらずのデット入稿になるだろうが、かまわない。
月の前半はほとんど何もしていない状態だったのだから、驚異的なスピードだ。

羽鳥としては、不満をおぼえるところでもある。
結局、通常の半分の時間で描き上げたことになるのだから。
こんなことが出来るのなら、毎回やって欲しい。
そうすれば多分、羽鳥の労働時間は格段に減るだろう。
睡眠時間も休みも多くなる。

そこまで考えて、羽鳥はふっと笑った。
こんなペースで毎回やられたら、それはそれで心配になるだろう。
それに仕事にかこつけて、吉野の家に出入りする機会も減ってしまう。
吉野は怪我もなく生きているし、仕事への情熱も取り戻した。
それで充分ではないか。

羽鳥は真剣な表情で筆を進める吉野の横顔を見つめていた。
実年齢よりも子供っぽく見えるいつもの吉野ではない。
張り詰めた緊張感は、まぎれもなくプロのものだ。
こういうアンバランスさが吉野の魅力だと、羽鳥は思う。
いつまでも見守っていたい。愛したい。

羽鳥は飲み物を用意するために、キッチンへ向かった。
コーヒーと、疲れが取れるような甘い菓子でも添えてやろう。
その後は印刷所に電話して、締め切りの交渉だ。
今の吉野のために、羽鳥がしてやれることはたくさんある。
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