…したい10題

□笑わせたい
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楽しいことだけ並べて、笑わせたい。
ただそれだけのことができないのが、もどかしかった。

吉野千秋がその事件を知ったのは、入稿してかなり時間が経ってからだった。
顔見知りの編集者が刺されたことに驚き、その事件の全容を知って驚愕した。

犯人は、付き合っていた女に振られた男だった。
そしてその狙いは小野寺律ではなく、吉川千春だった。
自分を振った女は吉川千春の大ファンだった。
そんな理不尽な理由で、男の恨みは吉川千春に向かったのだ。
だが男は吉川千春の家まで突き止めたものの、その顔を知らなかった。

唯一の目印は、女が吉川千春に送ったジャケットだった。
市販品だが、手製のエンブレムをつけて、ボタンもわざわざ付け替える細工がされている。
吉川千春の作品に出てくる登場人物の服装を模したものだ。
男は女がそれを吉川千春に送ったことを憶えていて、それを目印にしたのだ。

「何ですぐに教えてくれなかったの?」
「教えていたら、お前は描けなかっただろう?」
抗議する吉野に、羽鳥がそう答えた。
木佐経由で高野から事件の連絡を受けた羽鳥は、それを隠した。
とにかくデット入稿の吉野の原稿を回収するためだった。

今、吉野宅にいるのは、吉野本人と羽鳥、そして柳瀬の3人だ。
事件の後、吉野はずっとこうしてベットに寝転がって、ぼんやりと過ごしている。
そろそろ次の原稿に取りかからなくてはならないのに、ずっとそんな調子だった。
羽鳥も柳瀬も、時間を作ってはここへ足を運んでいる。
だがどんな言葉をかけても、吉野の落ち込みは直る気配もなかった。
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