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□あたりまえの奇跡
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あたりまえ奇跡


低くおぼろげな陽に見守られて、彼の声を耳にした。




「なあ、俺が死ぬ前にしてほしいことは?」


ふふっと微笑を浮かべて、音を生んだ。


「なんやろね、もし、今、あんたが死んだとしても悔いはほとんどないよ」


「ほとんど、ってなんやねん、それ」


特徴のある聞きなれない言葉づかい。

彼らにとっては、それが普通だった。

木々たちが色鮮やかに絨毯を作る、そんな季節もとうに過ぎ、辺りは白い雪に染まっていた。

彼は、目の前から飛んできた彼女の言葉に機嫌を悪くすることはなく、訊き返した。

彼女の微笑がうつって、彼の目も細い三日月を描く。


「あるとしたら、うーん、これからあんたの顔が見れへんようなることちゃうかな」


もう、幾度となく入った彼の部屋。

彼のものでもあり、彼女のものと化した机、ベッド、クローゼット、そして、小さなテレビと少しの漫画……。

どれも、目を瞑ってでもどこに何があるのかわかるくらいになっている。

机の上の、もうすぐ提出の問題集とノートも、窓から見える景色も、一昨日と何ら変わりはなかった。

もちろん、黒く硬い髪質も。


「えー、俺を追ってきてくれるんとちゃうん〜」


目には笑み、口には針をおく彼は、ベッドに腰掛け彼女の髪をぐしゃぐしゃと、かき混ぜる。

まるで、ジューサーのように。


「あたりまえやんー。あたしにはあたしの人生があんの」


彼の手が、かき混ぜる自分のものとはまた違った手触り。

肩の上で切りそろえられた髪は、癖っ毛の茶色。

まさに、彼らの性格そのものである。

彼女は、手をどけぼさぼさにされた髪を丁寧に手ぐしで整えた。

起き上った彼女とは反対に今度は彼が、ベッドに沈む。


「でも、あんたの顔が見れへんくなる、ってことは、あたしからすべての幸せを奪うってことなんやからね? それくらいの悲しみはあるよ」


「お前のそれくらい、は俺のそれくらい、とちゃうからわからんわーっ」


彼は天井を見ながら万歳をする。

遅れて、彼の隣に寝転がった。


「あたりまえが、あたりまえじゃなくなるくらい」


そう返答した彼女の目はしっかりと彼の横顔をとらえていた。


「あたしにとっては、あんたの顔を見たり、声を聞いたりするだけでもう十分幸せなことなんよ」


視線に気づいた彼に彼女の口はまだ開く。

声が、静かに部屋に響く。

外では、カラスが鳴いていた。


「あたりまえやったことが、あたりまえじゃなくなるんが一番怖い。あたりまえなことが世界一、大切で大事なことなんやと、あたしは思う」


もう、彼女の目は彼の方にはなかった。

背中で彼が動くのを感じた。

力の入った小指が彼女の背中に当たる。


「じゃあな、俺がお前に、触れたい、って思うんは欲張りなことなんやろうな」


上から声がした。

彼女の瞳に映ったのは、彼の顔と、それを包むように部屋に差し込む夕陽だった。

彼女をいたわるような、彼女のへの愛がつまったような、それ自体がもう言葉で、想いのような優しい一粒の雨。


「あたしも、あんたのそばにいたい、っておもってるんやから、あたしも欲張りやよ」


逆光で彼の顔はよく見えないけれど、微笑んで見せた。



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