novelle
□空を翔びたい
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空を翔びたい
椿はひとり、澄み渡った空を見上げた。
俗で言う田舎であるこの村の空は、どこぞの都会とは比べものにならないくらい空気が澄んでいる。
四方を山に囲まれたこの村は穏やかであった。
交通の面では不便極まりないが、そこまで村から出る人もいないので駅では毎日猫の駅員さんが日向ぼっこをしているのもまれではない。
気候も良く、食べ物も豊作な恵まれた環境で彼女は息をする。
仰いだ彼女の瞳に映りゆくものは、グラデーション成す青と真っ白な雲。
それらは一瞬一瞬自身の形を自在に変化させ、見ている人を楽しませる。
そして、そのあいだを颯爽と飛び、生んでいく飛行機だった。
村で一番高いところで望む青空は、彼女の心をより一層落ち着かせた。
今では、彼女の場所といっても過言ではないここは椿の村一番のお気に入りの場所だった。
そして、まわりには一人しかいない。
ここに来るまでの道は、険しく到底道といえるものではなく、人一人入ってくるのも大変だった。
しかし、椿は学校帰りになにか、用事がないときはいつも、すぐここに来る。
何をするというわけではなく、今のようにただ空を見つめるのだ。
「今日もいい空だね」
数ヶ月前までは一人でここにいた。
家にもすぐには家へ帰らず、友だちと遊ぶこともあったことはあったがないに等しい。
そして、働くこともせずに毎日毎日ここにいた。
雨でも枝葉の屋根があり、ずぶ濡れになることはなかった。
一人でいたあのころは寂しくなどなかったが、今では一人ではなく誰かとここにいたかったのではないだろうか、とふと考える。
「ああ。今日の空は、今の空はこれっきりだから。椿はどんな空を見てみたいんだ?」
椿の傍らに座る青年が今時の薄型カメラのシャッターを切る。
数ヶ月前、椿から一人、という言葉を奪った青年である。
突如、彼女の前、このお気に入りの場所に現れた彼は、未だに謎が多い。
しかし、彼は椿の運命の人だ。
この先の未来、もしかすると地球が明日無くなってしまうかもしれない未来、なにが起きてもそれだけは変えられないと互いに思う。
「ねえ、翔。飛行機雲ってなんでできるんだろう。ただ飛行機が通っているだけなのに……」
子供のような質問を問いかける椿は周りからすると幼いのだろうが、椿にとってそれは純粋な質問だった。
否、彼――翔にとってでもある。
世界の中でわからないことがあれば、素直に正解にたどりつこうとする。
「さあ、なんでだろうな。鳥が飛んでも雲はできないのにな」
苦笑する彼につられ、椿も頬を緩める。
二人とも、わかっている。
飛行機と鳥が異なることなど。
それでも、追求したい正解は見つからないのだ。
彼らは決して幼くはない。
むしろ、大人だ。
誰よりも。
「鳥にね、……鳥になりたいの」
小さいころからずっと思っていた。
母や父など人前では言わなかったが、もうずっと前からの椿の望みである。
だが、翔の前で口にしたのはこれが初めてではない。
かえって、口にした回数を数えるのも面倒なくらいだ。
「椿が鳥なら、俺は空だな」
「翔らしいね」
これも同じく。
翔はまるで空だった。
椿から見て彼は――周りから見て彼は、優しくすべてを包み込み、何もかもを受け入れることのできる寛大な心の持ち主だった。
「ここにさ、くることできるよね? まだ」
「必ず」
短くとも彼の心を感じる。
もうすぐ、彼らは大学受験を控える高校最後の夏を迎える。
大学へ進学を希望する彼らは、この村に大学がない限り、必然的にここを出なければならない。
「ここを出ても、月に二回は帰って来れるさ」
椿は小さく頷く。
そして、青い草の上から腰を上げかばんを手に取る。
翔も同じように椿に続いて丘を降りる。
「椿、ここを出たら一緒に暮らすか。そのほうが安全だろ?」
包み込む声と心はいつまでも椿の心をつかみ、離さない。
「あ、見て翔! ねえ、はやく!」
都心の街に愛おしい声が彼を呼ぶ。
「何、何?」
声のするほうへ向かうとアパートのベランダに出ている彼女。
「ほら! 飛行機雲! 夜の飛行機雲だよ! 初めて見た!!」
彼女の指差すところには、ネオンの輝く街の上を飛行機雲がしとやかに生まれていた。
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