時よ止まれ、君は美しい/春刹





ほころび始めた桜の樹々を横目にバスケットを下げてなだらかな丘を登っていく。
冬の気配も随分去って暖かく、空は穏やかに微量の雲を纏っている。
風すらも、薄い絹布が頬を撫でるようになめらかで、うららかという言葉がこれ程良く似合う日和もないと思った。

『わぁ、結構歩いた気がします』
『私もここまで登るのは久しぶりだ』

彼女は軽く伸びをして、いつもより少しだけ遠くに見える景色を見渡す。
彼女がすうと胸一杯に息を吸って吐くのを私も真似てみようかと思ったが、すんでの所でなぜか気恥ずかしくなり、気持ち多めに肺に空気を送るだけにした。
借りてきたシートを芝生の上に敷いて腰かける。シートは二人が座るには十分すぎる広さで特に機能面に不満はないが、いかんせん見てくれが良くない。
全く洒落っ気のないブルーシートは、彩られた春の丘の上では中々に違和感があるような気がした。
『ふふ、難しそうな顔してどうしたんですか?さ、お弁当食べましょう』
『ん、そうしよう。君が作ってくれると言うからとても楽しみでね』
私は彼女の言葉に微笑み返す。
着くまで絶対に中身は見ないように、と彼女がバスケットを持ってきた時に真剣な顔をして言ったのを思い出し、さらに口元が緩んだ。
理知的で勘の良い彼女が時々見せる生来の純粋さはとても得難い魅力がある。

バスケットから取り出されたプラスチックの食品ケースには、彩りの良いサンドウィッチとポテトサラダが品良く並んでいた。
彼女が借りた職員用のキッチンは手狭で、自分自身も食べ損ねた朝食を簡単に作ったり、コーヒーを入れる位の用途でしか使ったことはなかった。
患者なり職員なりの食事は全て奥の調理室で管理されているから、あのキッチンを使う者はだいたい自分と同じ様な用がある人間だけだろう。
『あのキッチンでこんなに美味しそうなものが作れるとは知らなかったよ』
そう言うと彼女は、確かにちょっと狭いですもんね、と僅かに苦笑した。
『簡単な物ばかりですけど、味は保証つきですよ、どうぞ』
『ああ、頂くよ』
そう言ってサンドウィッチを手にとろうとした時、ふわふわと流れてきた花びらが彼女の艶やかな髪にひとひら落ちた。
払おうと伸べかけた手を止めて、まだ桜が散る頃ではないのになぜ花びらが、と不思議に思って目を凝らす。
それは花びらではなく、白い蝶だった。
髪に留まったのが蝶だと気づいた彼女はそれを厭い追い払うでもなく、ほんの少しだけ驚いて無邪気に微笑む。

私の眼前にある『偶然』はただ美しくそこに佇んでいた。

ふと、戯曲の台詞を思い出す。
しかしそれはすっと心の中に溶け落ちて、言葉になることはなかった。
精緻に造られた美しい髪飾りのようなそれはまた気まぐれにふわりと羽を広げて風に舞う。

『ふふ、なんだかもうすっかり春ですね』

蝶の行く方を見つめる彼女の呟きも横顔も、全てが尊く澄んで見えた。
私は静かな充足感の中で、あの一瞬の美を前に飲み込んだ言葉を反芻する。

暖かな日差しの中で手に取ったコールスローサンドウィッチは、懐かしいような春の味がした。







「手作り弁当を持って裏山へ」というシチュエーションで春刹 ダイオード様でした!

北海道ではまだ雪が積もってますが、内地ではもうそろそろ桜の季節ですね。
刹ちゃんの清らかさが引き立つ描写、教授の心に刻まれた情景、共に春風のような心地よさを感じました。
ふわりと香るようなSSをありがとうございます。


2011.03.08 乃愛

[TOPへ]
[カスタマイズ]




©フォレストページ