捏造小説

□中編部屋
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4 それでも幸せだったといえるなら



だが、この夢のような計画は永久に実現されることがなかった。

近づく死の手が、突然甘い希望を無慈悲に叩きつぶしてしまったからである。


1814年11月27日 ※サド日記訳

[ヤコ、96回目の来訪、我が輩が自分の身体の痛みを詳しく話して聞かせると、彼女はとても心配そうな様子を見せる。

そして、どこの舞踏会にも決して行かないと約束してくれる。

それから将来のことを話す。来月19日にヤコは18歳になるという。

いつものように、ささやかな遊びにふける。来週の日曜日か月曜日に、また来ると約束する。

そして我が輩が彼女のためにしてやったことについて、お礼を述べる。

我が輩を裏切ってもいないし、裏切るつもりもないことをヤコは示してくれた。

彼女は二時間いた。我が輩は非常に満足だ。]



これがヤコの最後の訪問となった。

日記は3日後の30日短い記述でぷっつり断ち切られている。


亡くなったのは12月2日午後10時頃であった。

死因は[喘息性肺栓塞]。12月4日にまた来ると約束したヤコはこの突然の死によって、思いもかけず二度と会うことができなくなってしまった。


12月4日埋葬式。
遺言書が開かれた。

「(前略)墓穴を閉めたらその上に樫の実を蒔き、我が輩の墓の跡が地表から隠れるようにしてほしい。

我が輩は人類の精神から我が輩の記憶が消し去られることを望む。」

とあった。しかし親を捨てた次男坊によりことごとく無視される。骨は墓地に埋葬され十字架が立てられた。

遺言の最後はこう締めくられている。

「ただし、最後の瞬間まで我が輩を愛してくれた少数の人たちについては、この限りではない。我が輩は彼らのやさしい思い出を墓のなかへ持って行くだろう。」





18世紀末から19世紀初頭にかけて彼は十指にあまる牢獄から牢獄を経めぐり、通算30年に近い幽囚生活を送ることを余儀なくされた。

しかし、なぜそれほど長い期間を監禁されていなければならなかったのかという理由は極めて曖昧だ。第一、彼は人間を1人も殺してはいない。

確かに放蕩の限りを尽くしているがそれは封建時代の大貴族たちの日常茶飯事でもある。

もっと残酷なことを趣味とする道楽者だってこの時代にはさして珍しくなかったのに。



─理性を突破する理性は狂気と見なされる─

彼は自分の身に禍いの降りかかってこないような文章をじつに一行も書かなかったのである。


マルキ・ド・サド─
彼は死ぬまで明晰な精神の持ち主だった。











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