捏造小説

□中編部屋
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1 暖炉前での出会い



場所はフランスのセーヌ県、かつてバスティーユ牢獄から移されたシャラントラン精神病院に13年の時を経て、ある男が戻って来た。


時は1808年1月9日
朝晩の冷え込みが厳しい日だった。厚手のコートをまとい湖の水を桶に汲み上げて院内に戻るのは家政婦として勤めているハルカだ。

「あら?」
病院内のサロンに続く廊下で、一人の男性が佇んでいた。院内の散歩をしていたのだろう、杖をついていた。

彼女はにこりと笑うと近づいて挨拶をした。
「おはようございます。ネウロさん」

「うむ、おはようハルカ夫人」

帽子を取り丁寧にお辞儀をするこの老文学者こそが、牢獄の魔王と恐れられた晩年のネウロ侯爵その人である。

ハルカはその著書を読んではいないが、少なくとも接する限りでは悪い人には感じられない。

革命の時代を生き抜き、いまや余生を静かに送る孤独な紳士に見えるのだった。

「何を見ておいでですか?」

ネウロは指差してこたえる。
「見慣れぬ娘が、暖炉の前で本を読んでいるのでな、様子をうかがっておったのだ」

「私の娘のヤコです。今日は来たいと言うので連れて来ました」

「そうか。どれ、我が輩が遊んでやろう」

「まぁ、娘も喜びますわ。」

その1人おとなしく読書する12・3歳の少女は、ネウロに独りで過ごした少年時代を思い起こさせたのかも知れない。


少女が腰掛けている椅子まで足を運び声をかけた。

「ハルカの娘よ、初めてお目にかかるな」

「あっおはようございます」

栗色の髪をはねさせ満面の笑顔で挨拶をするこの少女を、老人の眼にはどう映っただろうか。

「‥絵本か、擦り切れるまで読みこなしておる」
「はい、この童話が好きなんです」

「どれ‥聞いてやる。声に出して読んでみろ」
「え?え〜と‥コホン。じゃあ‥」


チチ‥パタタ‥

「‥この下手くそめが、さえずる鳥が逃げてしまったではないか」

「‥んなっ!!何よ!!あたしのせいじゃないもんっ!」

「だが、この声では将来役者にもなれんぞ?今の我が輩の貴重な時間を返せ」

「そんなのムリっ!!じゃあ、おじいちゃん読んでよっ!!」

「よかろう」
よどみなくつっかえることもなく、抑揚のついたテノールがそよ風のように朗々と響き渡る。

ヤコは目を見張った。
「‥すご‥い!おじいちゃん何してたの?」

「なぁに‥若い頃から芝居を観るのが趣味でな。脚本を書いては劇場に売り込み、俳優に指導しておった時期もある」

「へぇ‥実はスゴい人なんだね」

「実はとはなんだ」 ブスッ

「Σ痛〜っ!!頭刺さないでよ、これから良くなるんだからっ」
ヤコは頬を膨らませぷんぷん怒った。

─ああ、そうだ。
我が輩もいまだに芝居への情熱を失っていない。

「ヤコ、我が輩もこれからだ」

「あ、あたしだって頑張るよ、おじいちゃんがビックリするぐらいいい声になってみせるんだからっ」

少女は負けん気が強かった。その張り切る姿勢が好ましかった。

「ヤコ、ネウロだ、ネウロと呼べ。貴様気に入ったぞ、特別に指導してやろう」

「えっ!?教えてくれるの?」
「ああ、次はいつ会える?」

「次の日曜日なら来れるよ、わたし洗濯屋に奉公してるの。1週間に1日休みもらえるからその日ならいいよ。ネウロ」

「ではその1・2時間でよい、我が輩の元で学べ」
「はいっ」

知らず知らずのうちに2人は寄り添い、顔を合わせて喋っていた。


ハルカも何度か水汲みを往復しているうちに仲の良い2人に気づいたようだ。

娘から話を聞き、すすんで娘をネウロのそばへ行かせようと計らってくれた。

そのおかげで今後、この一週間に一度の短い逢瀬は、規則正しく続けられることになる。



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