捏造小説

□中編部屋
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サド経歴



父サド侯爵はフランス最高の貴族たる家の親類の娘と結婚した。

サド家は単なる地方貴族からブルボン王家につながる宮廷貴族の身分に昇格した。

その間に生まれたのが後のサド侯爵である。

父母の愛情に恵まれず、兄弟もなく、暗い城や頽廃的な僧院における生活は後に彼の想像力に何らかの影響を与えただろう。

少年サドは士官学校を入学、19歳で騎兵隊の大尉に昇進する。女優ラウラの血統をもつ彼は170cmの背丈で金髪碧眼、ことに容貌に優れた美青年であったようだ。

そしてサド家の財政状態は陰気で厭世的な父親の浪費により、ひっ迫していく。

それを気にせず舞踏会や芝居にかかさず出かけ金離れがよく贅沢三昧放蕩するサド青年は、家族に疎まれるようになる。

世間体を保つ目的で父親と相手方の叔母の策略により当時の恋人と裂かれ政略結婚。

この時代の厳格なカトリックでは恋愛の熱狂に身をまかせることこそタブーだった。だが、これに彼は反発し愛欲に生きる事を決める。


1763年10月29日(当時23歳)
初めて獄に収容される。数々の放蕩は特に義母の怒りを買いその後、累計28年間にも及ぶ獄中生活の幕開けとなる。


1768年4月3日(28歳)乞食女の一人を城に呼ぶ。後に裁判沙汰になる。鞭で女を打って快楽を得る趣向、これを後にサド侯爵の名からサディズムと呼ばれる。

釈放あるいは脱獄、投獄、を繰り返し監獄の中で何よりも欲したのは精神の自由──‥・

牢獄という孤絶的な状況の中で魔王さながらに文学の中に毒の炎をことごとく燃やし尽くした。書籍を読んだ民衆は震え上がり彼に対する偏見が厳しくなる。


1789年7月12日(49歳)革命運動の激化。群衆は「バスティユへ!」を合い言葉に暴動を起こす。数百名の犠牲者を出し要塞側を降伏させる。

7名の囚人は、感激した群集に英雄として迎えられた。サドは7月2日までこのバスティユ牢獄にいた。シャラントラン精神病院へ移った後だった。


1790年4月2日(50歳)憲法制定議会の訓令により出獄した彼に待ち受けていたのは夫人との離別。

ただ独り無一文でパリに放り出された彼は、劇場へ向かい脚本を売り込み、初めての舞台で大成功をおさめる。だが、「貴族的」という理由で過激派が芝居を妨害し、ついに興行を中止せざるを得なくなった。

生活は貧困の一途をたどりはじめ世相の求めるままに作品を出版する。


1792年8月10日(52歳)パリ暴動国民と宮廷側の正面衝突。死傷者も千名を超えた。

そして、9月2日後に[九月の虐殺]と呼ばれる惨劇が起こる。血に狂った暴徒達はパリ中の監獄を狙って殺到した。

何千人という囚人や反革命者が命を落とした。

その余波は地方にも波及した。サド家の城にも村人が侵入し滅茶苦茶に荒らし破壊したのである。

抗議は退けられ貴重な財産の多くは二度と戻らなかった。その後、王制の廃止が議決されていた。フランスは共和制となる。

1793年10月16日(53歳)王妃マリーアントワネットが革命広場で断頭台の露となる。


1794年4月5日(54歳)ロベスピエールがフランスの支配者になる。憲法なき革命政府はパリで2800人、地方で14000人の処刑を行う。


1794年7月28日ロベスピエールら22人のテロリストら処刑。

革命が終わり市民サドは革命政府の獄中から釈放。サドは財産を差し押さえられ持病が悪化し貧窮などん底の生活を強いられた。


1797年(57歳)フランスは華美な服装が流行し好色本がもてはやされる。サドの本は売れ行きが非常に盛んになる。


1799年(59歳)クーデターが成功。ナポレオンが第一頭領となり、軍事独裁政権が確立する。政府の命令で公開禁止の[危険書庫]が創設される。


1801年(61歳)サド逮捕。これにより二度と娑婆の空気を吸えなくなった。生きながらにして歴史の闇へ葬られる。



そして最後の物語は、
1808年1月(68歳)シャントラン精神病院から始まる。



「‥まさに波乱万丈の人生だね、ネウロ。‥ネウロ?」

「これがサドが書いた直訳か」
ぱらりと本をヤコに向ける。

「Σうひゃぁ!!きっつい!!真顔で読めるのあんたぐらいなもんだよ!!」

「‥娘をピ──ッて拷〇し、機械仕掛けの拡〇椅子にピ──ッて陵〇し‥」

「Σだから読むな───っ!!!」

「‥チッ、ほとんど妄想が炸裂して実践には向かんな」

「やんなくていいから。」



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