戦ラバキャラと対談&歴史四方山話

□美女の苦悩と愛と信仰〜四方山話
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明智光秀の三女お玉の苦悩は父光秀が信長に謀叛し、敗死したことで始まった。

お玉ことガラシャは父親同士が親友だった細川幽齋の嫡男、忠興の正室として嫁ぎ、一男一女をもうけていた。忠興とお玉は美男美女カップルで(現代人の目から忠興の肖像画を見るとそう思えないが)仲睦まじかった。しかしその幸せも父の謀叛で断ち切られる。

父光秀の敗死後、謀叛人光秀の娘であるお玉は離縁されてしかるべきだったが、時の権力者秀吉を憚って、味土野という地に幽閉される。二年余りの幽閉の後秀吉の赦しを得て再びお玉は忠興の元に戻るが、お玉不在の間に夫の忠興の側には数人の側室がいた。

お玉の父明智光秀は愛妻家で側室を持たなかった。義理の父で忠興の父である細川幽齋も愛妻家で同様である。忠興はそんな父親たちとは違い、妻の不在中に側室を作っていたことは、お玉には衝撃だっただろう。

忠興という人物は妻お玉に対する偏執的逸話が語るように激情家で策謀に長け、父幽齋の教養も受け継ぎ教養もあった武将だったが、女性に対する細やかな気配りには欠ける人物だったように思われる。

こうしてお玉は忠興の束縛的とも思える愛し方(秀吉に手込めにされそうになったら自害しろ等言われたり、他の男がお玉に見とれたら殺してしまう等の逸話等)や自分が生んだ次男三男が病弱であったことを気に病んで(忠興に非難されたりもしている)そんな逆境の中救いを求めるように、キリスト教の教えに傾倒していく。

しかしせっかくキリスト教の信仰に救いを見いだした途端、秀吉がバテレン追放令を出し、信仰を禁じた。お玉は既にガラシャという洗礼名を授かる信者だったが、当然夫忠興も妻ガラシャに改宗を迫った。キリシタンの侍女の鼻を削いで改宗を迫ったが、彼女は頑として受け付けなかった。一説にはキリスト教を信仰するようになってから忍耐強く穏やかになり、粗暴な夫忠興との離縁も思い止まったと言われる。

そして関ヶ原の戦が起こる前に石田三成が大名の妻子を人質に取る作戦を実行に移すが、この時大阪の細川屋敷にいたガラシャは、逃げる気はなく、人質になるぐらいなら死を覚悟していた。家臣小笠原少齋に槍で胸をつかせ亡くなったとされる(キリシタンは自殺は禁忌のため)が、近年では自害して亡くなったともされている。彼女の勇気ある行動で夫忠興や細川家は名を挙げ、三成の作戦は裏目に出た。この時ガラシャは38歳。壮絶な最期だった。夫忠興はガラシャの死を嘆き悲しみ、教会葬まで行った。

ガラシャの悲劇的な死は、世間の同情を集めたが、忠興とその子供たちに亀裂を生む。激情家忠興は長男忠隆の正室千世がガラシャを見捨て一人だけ逃げたと思いこみ、息子忠隆に妻を離縁するように命じる。これに反発した忠隆を忠興は廃嫡してしまう。

そしてもう一人次男もまた不幸な死を遂げる。次男興秋は弟忠利が兄忠隆の廃嫡後の世継ぎとなったことを不満として豊臣方につき、自害させられている。

ガラシャの死後彼女の息子たちは父の怒りを買って不幸な境遇に追い込まれたことは哀れで、忠興の跡を継いだ三男忠利は昔ガラシャが病弱だった忠利に洗礼を受けさせた逸話も伝わる。
忠利も気むずかしい父には相当手を焼いたようだ。意外に忠興は筆まめで子供たちとやり取りした手紙が数多く残っていると言う。

細川ガラシャの愛と苦悩の人生はキリスト教信仰によってようやく救いを見いだした。わたしの個人的な考えであるが、当時の大名の妻女たちがキリスト教に惹き付けられた理由が何となくガラシャ、お玉を調べていて納得できた。キリスト教は自殺や同性愛を禁じ、「一夫一妻」を信条とする宗教である。お玉ことガラシャはキリスト教にこそ自分の魂の拠り所を見いだしたのかもしれない。

けれど、彼女の短い一生は父の汚名がついてまわり、夫忠興の粗暴な愛し方にも離縁できなかったのは、子供がいたこともあるけれど帰るべき実家が無くなっていたことも関係していると思う。忠興がせめて妻の繊細な魂を理解できる人物であれば良かったのに…と惜しまれてならない。

複雑で歪な愛情で結ばれた忠興とガラシャは、自分たちの信仰や愛には一直線の真っ直ぐな生き方を貫いたのかもしれない。ガラシャは一方的に死という突破口で忠興から解放されるが、遺された子供たちが父の不興を買って苦労していることを考えるともう少し生にあがいて欲しかった気もする女性である。

夫忠興の妻に対する嫉妬深さの逸話の数々は何となくヤンデレの先駆者であるように思えば…難しいところである。

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