戦ラバキャラと対談&歴史四方山話

□セレブ妻の栄光と悲劇〜四方山話
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前田利家の娘豪姫は、子供のなかった秀吉、ねね夫婦の養女として赤子の時に引き取られ、愛情たっぷりに育てられました。秀吉は実子がなかなかできなかったので、養子が多くいましたが、女子は豪姫だけで、生みの母まつと育ての母ねねも仲がよく、何不自由なく育てられました。

やがて成長し年頃になった豪姫は、同じく母が秀吉の側室だった縁で秀吉の養子になっていた宇喜多秀家の正室になります。秀家は残っている肖像画や甲冑では絶世の美貌だったといわれる母福に似て大柄な美男子で、豪姫と秀家の夫婦は互いに秀吉の養子同士だったこともあり、とても仲睦まじかったようです。

ただ、豪姫との結婚で豪姫が浪費家だったこともあり、財政難でお家騒動が起きかけたり、重い病気になった豪姫のために信仰する宗教を変えたりと秀家はかなり妻思いというか妻の尻に敷かれている気もします。秀吉お気に入りのこの夫婦には二男二女が生まれ、秀吉政権下では順風満帆でした。

しかし、運命を変えたのは秀吉の死後、天下分け目の戦いの関ヶ原の戦で夫秀家は西軍の副将として戦い、敗れました。秀家は一旦自害しようとしますが、家臣の説得で逃亡生活を二年あまり送ります。遠くは島津家の薩摩まで逃げ延びましたが、島津家が匿えなくなり、秀家は捕まりました。

余談ですが秀家という人は武将や領主としては苦労知らずの二代目でたいした成果を出していませんが、人柄はいい人だったらしく、彼を匿った人も多かったようです。

当然捕まった秀家の処分も殺すべきという強硬意見もあったようですが、妻豪姫の実家前田家の助命嘆願もあり、八丈島に息子二人と家臣十人と共に流罪になりました。豪姫は自分も秀家や息子たちについて行きたいと願いましたが、許されず秀家との娘とともに実家の前田家に身を寄せます。これが秀家、豪姫夫妻の永遠の別れになりました。

八丈島での流人としての生活は厳しく、つらいものでかつては大名として何不自由なく豪奢な生活を送っていた秀家が食べるものに事欠くほどの生活でした。その暮らしぶりを伝え聞いた豪姫は流人の夫と我が子のために、実家の前田家を通して幕府に働きかけ、米を贈ることを願い出ます。豪姫の懸命な願いはかない、八丈島に定期的に米を贈ることが幕府から許されました。なおこの米の支援は隔年に七十俵ずつは幕末まで続き、八丈島の秀家の子孫たちに恵みをもたらしました。

豪姫は米以外にひそかに自分の絵姿を八丈島への荷に忍ばせました。その絵姿は今でも伝わっていて、顔の部分が今でも白く擦りきれているのは、母が恋しい豪姫の子供たちが撫でて母を偲んだからだと言われています。

豪姫は実家に戻った後は再婚もせず(同腹の細川家に嫁ぎ姑ガラシャを見捨て逃げたために夫が廃嫡され、離縁された妹は家臣の村井氏と再婚しますが)娘たちは前田の養女として、嫁がせます。

前半の秀吉の養女として、美男の夫や子供にも恵まれた栄光の半生の後、豪姫は夫や息子と離ればなれになり、堪え忍ぶ悲劇の後半生が待っていました。けれど前半生より生き別れになった夫と息子たちを案じて、働きかけた豪姫の姿は健気です。

激動の後半生を悲運に見舞われ、健気に流人の夫と息子たちを支援した豪姫は61歳で亡くなります。流人生活を送り続けた秀家は、厳しい環境の中でも生き続け83歳という長寿で亡くなります。

意外に戦国武将は領主でなくなってから長命な人物が多いので、かえって悠々自適に後半生を暮らしていたのかもしれません。一説には秀家が再び大名に戻る道もあったようですが、豊臣に恩義を感じる秀家は断ったとも言われています。

秀家の息子たちは八丈島で地元民と結婚し、秀家と豪姫の血を今に伝えているそうです。現在八丈島には、秀家と豪姫の銅像が建てられて、彼らの強い愛を現代に語り伝えています。

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