「牙琉先生」 パソコンに向かい、キーボードに指を走らせていた私は顔を上げる。いつの間にか自分が周りの音を遮断するほど集中していたということにその時、初めて気がついた。窓の外の、セミの鳴き声が耳に飛び込んでくる。 私は苗字を呼ばれるのがあまり好きではない。理由は、弟の響也を呼んでいるのか、私を呼んでいるのか、はっきりしないからだ。 開かれた職員室の扉の方へ目をやると、セミロングの髪を少し手でのけ、首筋を触りながら誰かを探しているような人影があった。 「ああ、三浦さん。どうかした?」 隣のデスクの弟が、プリントを何枚か持ったまま立ち上がり、彼女の方へ向かう。私はその動作をなんとなく、目で追っていた。 彼女は立ち上がった響也に気づいて小さく会釈をする。それから、口を開く。 「えっと、霧人先生に用が……」 「アニキに?」 「はい。ちょっと、課題のことで」 2人の視線がこちらに集まる。口をつけかけていた冷たい麦茶のカップから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。長時間同じ姿勢で座り続けていたからか、身体中がバキバキと音を立てていそうだ。 響也は三浦さんに、またね、と声をかけ、手にもったプリントをひらひらさせながらコピー機の方へ歩いていく。 「どうかしましたか。」 三浦さんは私にも先程の響也と同じように会釈をする。それから片手に持っていた問題集を、少し揺らした。 「課題で、どうしてもわからないところがあるので教えていただければと……」 彼女の持った問題集を見ると、なるほど、蛍光色の付箋が何枚か貼られているのが分かる。私は軽く頷いた。 「わかりました、隣の自習室で待っていてください。私もすぐに向かいます」 「ありがとうございます」 三浦さんは少し、微笑み、頭を下げて扉を閉める。 首を回すと、ゴリッと音がした。思わず苦笑いしてしまう。続けて身体を動かしてみると、さらにバキバキと鳴った。 「アニキは、一度に頑張りすぎだよ」 印刷音のするプリンタ室の扉から、響也が半身をこちらに出して笑っていた。 「仕事は早く、効率的に終わらせるものですよ」 頑張りすぎ、か。弟に言われると素直に受け取れないあたり、私もまだ子供なのかもしれない。 デスクのパソコンを閉じ、職員室を出る。廊下の熱せられた空気が、非常に不快だ。自習室の扉を開ける。頬杖をついてノートと向かい合っていた三浦さんが、はっと顔を上げた。 彼女の正面の椅子を引き、そこに腰掛ける。なぜだか声を出すのも億劫に感じられて、私をぼうっと眺めている三浦さんに視線を送った。 彼女になら、私の言わんとしていることがわかるだろうと思った。 「……あっ、はい、えーと、まずここの問3で……」 やはり、伝わるか。さすが。 安堵というのか、感心というのか、少し笑みが漏れた。響也、御剣さん、成歩堂。彼らが三浦さんを気に入っているのも、納得がいく気がする。 「それは使う公式が違うだけです。気をつけて解けば、簡単ですよ、あなたになら。」 えっ、と声をあげながら、彼女は私を見つめた。 「早く、解き直してみたらいかがですか?」 「あ……はい」 彼女はまた視線を落とし、時々ペンを止めながらゆっくりと計算していく。するすると、縺れた糸を解くかのように。 やがて答えが定まると、彼女は顔をあげて嬉しそうに笑った。 「本当だ。ありがとうございます」 「……いえ。あなたなら、きちんと考えれば全て解けるはずですよ。次は?」 三浦さんはまたきょとんと私を見つめ、それから問題集のページをぱらぱらとめくり始めた。 エアコンの風が首の後ろにあたる。くすぐったいような、寒いような。 これはいい息抜きかもしれないな、と頭の隅で考えながら、三浦さんが糸をほどいていくのを眺めていた。 ジャワジャワ、蝉が鳴いている。頑張りすぎ、とは思わないが、確かにこう、「まわり」を感じながら何かをしてみてもいいかもしれない。 「……蝉が、生きてますね」 「はい?」 「夏ですね」 「……そう、ですね。」 13.08.13 |