「そんなの、私のせいじゃない。自分勝手すぎるんじゃ、」 がっ。鈍い音が頭に響いて、視界がぶれる。痛みと言うよりは衝撃といったほうが正しいだろうか。右目の上にモロに拳が叩き込まれたようで、私の身体はいとも容易く吹っ飛んだ。一瞬何が起きたのかが分からなくて、私は急に近くなった地面を虚ろに眺めていた。右の視界が赤く閉じる。もしかして、血とか出てるんじゃないの。恐る恐る右手で痺れる箇所に触れると、びりっとした痛みに襲われる。左目の前に手を翳すと、べっとりと血が付いていた。なんてことだ。最悪な男だとは分かっていたけれど、まさか手をあげられるとは。よろりと立ち上がって睨み付けると、そいつは冷めた目で私を眺め、立ち去った。冗談じゃない、これからバイトなのに。とりあえず歩き出そうと血を手の甲で拭う。擦れるたび激痛が走り、惨めだなあと苦笑した。 「こんばんはー」 ボルハチに入ると、成歩堂さんが顔をあげた。いつものようにひらりと振ろうとしたのだろう右腕がピタリと止まる。え、そんなに目立つかな。 「何したの」 「例のあの人です」 「手はあげられてないって言ってたよね」 「はい。こんなのは初めてです」 へらーっと笑ってみせる。成歩堂さんは急に厳しい表情になって、立ち上がり近づいてくる。いつもとは違う気迫に、私は思わず後ずさった。近すぎない程度に立ち止まった成歩堂さんは、まるで壊れ物を扱うみたいにそっとガーゼに触れる。 「君は、もっと自分を大切にすべきだ」 「……十分ですよ」 「そんなことない」 思えば、あの人の態度がおかしくなり始めたのは私がボルハチで働き始めた頃からだった。はじめは必要以上に心配するだけだったのに、携帯を勝手に見たりしだして、最近ではストーカー紛いな行為や、キレて物に当たるようになっていた。それでも手をあげられたのは、さすがに今回が初めてだ。 「本当に心当たりは無いんだね?君を疑う訳じゃ無いけど、浮気をしてたとか」 「う、浮気ですか?いえ……あ」 あ、と声を発してから私は慌てて口をつぐんだ。成歩堂さんが、え、と口をあけて私の顔を凝視する。心当たりがあるの?その目が、私にそう問いかけていた。 「あの、そうじゃなくて、もしかして」 成歩堂さんが数回瞬きをする。その首元で、金色のチェーンがきらりと光った。私はふと浮かんだ可能性に、背筋が寒くなるような、変な感覚を覚えた。違う。違う……?このまま考え続けていてはいけないような気がしていた。 「なに?」 「あの。成歩堂さんと私を、疑ってるんじゃ……ないかと……」 そこまで言って気づいた。あの人は本気で私を愛してくれていたのだと。だから、私自身が気づいていないことにすら、気づいた。そして不安になって私を縛った。拘束すればするほど、私と成歩堂さんが関わる数が増えるだなんて思いもせずに。なんてことしてくれたの?あの人がこんなことしなければ、私は自分の心変わりにずっと気づかないでいられたのに。 「僕?僕と君が、浮気してるんじゃないかって?」 「………あ、あの。多分……」 「なんだ。だったら僕がついて行く。一緒に説明に行けば、誤解も解けるだろう」 「待って!」 口にしてからはっとする。それで良かったじゃない。どうして引き止めたりなんかしたの。成歩堂さんは驚いたようにじっと私を見つめる。もう言ってしまってもいいんじゃないか。 「誤解じゃなかったら?どうすればいいですか?」 底冷えする店内。成歩堂さんが腰掛けるピアノの椅子が、ギシッと軋んだ。思わず手をついた鍵盤から、ガーンと低い音が響いた。 |