短編

□僕の愛した嘘
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「梛」


僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女はゆっくりとこちらを向いた。まだだるいのだろう、僕を見る目がうつろだ。コップに少し水を注ぎ、梛に差し出す。白くて細い彼女の指が延びてきて、するりと僕の手からそれを奪い取った。


「何があったの?」


梛は答えない。ただぽーっとどこかを見つめながら、ごくごくと水を飲み干していく。白いセーラー服が彼女の身体の下で皺になっていた。梛の目が赤く腫れている。理由を僕は、なんとなく分かっていた。


「霧人さんは寂しい人だね」


ぽつりと梛が呟く。僕に対して語りかけている訳では無さそうだ。彼女が呟く兄貴の名前は、僕が知っているものよりももっと繊細なもののように聞こえた。彼女の口からこぼれるからだ。どうして、どうしてこんなにも違うのだろう。どうして、彼女が呼ぶのは僕では無いのだろう。


「霧人さんは、私のことが嫌いなんだって」


その言葉もやはり、僕に向けられたものでは無さそうだ。梛の手から空っぽになったコップが滑り落ちた。がちゃんと音がする。コップはただのガラスになった。破片が僕の足に突き刺さる。赤く血が滲んだ。まったく、痛く無かった。霧人さんは…。梛が続ける。何分か、彼女は兄貴の名前を呼び続けた。


「牙琉くん」


はじめ、彼女が僕を呼んでいるのだとは気づかなかった。昔、梛は兄貴のことを牙琉くんと呼んでいたから。


「ねえ牙琉くん」

「……え?」


彼女の顔は僕に向けられていた。どくんと胸が騒いだ。


「牙琉くん」


一歩彼女のほうへ踏み出すと、足の裏にガラスが幾つも刺さる。それでも構わなかった。梛が僕を呼んでいるという事実が、痛みを麻痺させる。


「……なんだい?」


伸ばした腕が彼女によって強くひかれる。僕はあまりのその強さによろめいて、ベッドに倒れ込んだ。梛が僕をじっとみつめる。


「牙琉くん、私が好き?」


え、と言葉が漏れる。彼女の目は僕を捉えているのだろうか。続く言葉を探す僕をしばらく見つめたあと、梛は僕にしがみついて、キスをした。そのまま僕の胸に身体を埋める。


「牙琉くん、わたしがすき?」


僕の服を掴む梛の肩がかすかに震えていた。所詮僕は、兄貴の代わりということだ。これから先、梛が僕を響也と呼ぶことはない。そして僕を牙琉響也と見ることもない。愛する人の中に僕は、はじめから存在しないのだ。僕は、ゆっくりと梛の肩を抱く。もうそれでも良いと思った。僕が牙琉霧人になってやる。牙琉響也を殺そう。それで、きみが救われるのなら。










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