短編

□行くあてはないけど
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ひゅるりと冷たい風が頬を撫でた。春とも冬とも区別のつかない香りのするそれは、あっという間に僕を追い抜いてどこかへ消えていく。


「梛」

「あ、響也くん」


僕の声に、梛は振り向いてふっと笑った。その笑顔を見ると、僕は春かな、と思う。なんとも単純な思考回路だ。
彼女はたまに、どこを見て、なにを考えているのかがさっぱり読めなくなるときがある。そんな時は誰が話しかけても―たとえ、それが恋人の僕でも―彼女の耳には届かない。
今が、それだ。僕の名前を呼んだっきり、彼女はまた顔を背けてどこか遠くのほうを見つめる。
彼女は決して弱音を吐かないし、逃げたりもしない。涙だって、1度も見たことが無い。それを僕は尊敬するけれど、不安にもなる。君にとって僕は弱いところを見せられない存在なのか、と。
そんなに僕を信じられない?
何度も、そう質問してしまおうかと思った。それでも僕がそれをしないのは、その質問をしてしまえばさらに梛が自分を追い詰めることになると知っているからだ。
だから僕は、何も言わない。何も言わない彼女をただ黙って見つめる。ずっと、隣に立つのだ。


「梛」


もう一度、梛の名を呼ぶ。一度や二度じゃ足りない。許されるのならば何度だって、僕は彼女の名を呼ぶだろう。
なあ、梛。きみはどれだけ僕がきみを愛しているか、知っているかな。きっと知らないだろう。だって、きみがどれだけ僕を愛しているかも僕には分からない。出来ることなら知りたい、でも、知るのが怖いんだ。可笑しいだろう。
梛はそのくるんとした黒い両の瞳で僕を見つめた。恐らく言葉の続きを待っているのだろうけど、続く言葉なんか無い。ただ、きみの目を僕に向けたかっただけだ。


「……寒くないか?」

「ちょっとだけ」

「そう」


じゃあ、


「ドライブに付き合うのは無理かな」


僕の言葉に、梛は瞬きをふたつした。そしてふわりと微笑むと、僕に抱きつく。予測の出来なかった彼女の行動に、刹那息が出来なかった。


「行くよ。知ってるくせに」


ああ、可愛い。本当に、どうしようもないくらい愛しい。いつかこの愛が尽きてなくなるときは、きっと僕の命が尽きてなくなるときと同じに違いない。
梛の柔らかい髪に唇を寄せて、きつく梛を抱きしめた。梛が僕に何も言わないのならば、僕は何も出来ないのか?それは違う。
彼女が答えを出すために、僕は全力を尽くして彼女を支えよう。愛で、きっと渇れることはない愛で。


「行くあては無いけど、それでも?」

「響也くんとなら、どこでも」










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