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□彼にしか出来ないこと
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無事に大門を潜り抜け、互いの肩に寄りかかりながら遠ざかる小さな背中を見送ってからサクラは帰路に着いた。
今回の訓練を報告書にまとめ少し休憩するつもりでベッドへ身を投げるといつのまにか眠ってしまったらしく目覚めるともう夕方が近い。
窓を開ければ暖かくなり始めた風と授業を終えた子供たちの駆け回る声が部屋へ入ってくる。
喉が渇いたと冷蔵庫のドアを引けば中身は空同然で、サクラは溜息と共に人差し指でドアを弾いた。
仕方なしに報告書を提出しがてら外へ出る。
書類はあっさりと受け取られ、ふらりと寄った待機所。
疲れているのか眠りの質が良くなかったのか少々ぼんやりする頭を傾げてお茶を啜りながら、ふと思い当たる。
待機所に詰める上忍の数が明らかに少ない。
里はいたって平和で各国の情勢も落ち着いているとはいえもしもの有事に対応出来るギリギリの数だ。
今のサクラのように時間を持て余した非番の上忍なら緊急の呼び出しに応えると踏んでいるのかもしれない。
湯飲みを片付け、待機所を出る。
買い物をする気にも料理をする気にも本を読む気にもならない。
アパートに帰るのも味気なく、サクラは師匠馴染みの居酒屋へふらりと足を向けた。
不規則な忍の生活に合わせてか里には昼間から酒を飲ませる店が開いている。
好物の梅干を使った肴とお気に入りの冷たい酒で独り無益に時間を消費しているとなんとなく人恋しくなってしまう。
里にいて、待機所へ寄って商店街を歩き、居酒屋に居座っているのに知人に会わないのも珍しい。
何度目かの溜息を吐いてテーブルに突っ伏し顔をあげたサクラは小さな悲鳴をあげた。
「六代目!」
音もなく突然現れ、当たり前のように向かいの席に座っている。
サクラが二の句を継ごうと吸い込んだ息を吐き出す前に静かに、とカカシが人差し指を口の前に立てた。
支給のベスト、左目を隠す額当てに顔を覆うマスク。火影となる前の出で立ちでにこりと目を細める。
「こんばんは、サクラ。今夜は月が綺麗だよ」
「こんばんは。随分日が暮れましたね」
深い青色に染まり始めた空の端で大きな月が輝き始めている。
窓の外をみあげて答えたサクラはもう冷静だった。
「六代目も飲みます? お仕事終わっているなら」
わざわざ目立たないよう着替えてまで一体何をしに来たのだろう。
火急の任務ではないようだが任務以外に用事が思いつかない。
「貰おうかな。外で飲むのは久しぶりだ」
「元からあまり飲まないですよね」
酔っ払っているところを見たことがないのはサクラが生徒であったせいばかりではないように思う。
新しく酒を頼み、お疲れ様と乾杯をする。カカシと二人きりで目の前に酒があるなんて新鮮だ。
「何か私に用事ですか、ろく」
「それ今から禁止ね。任務絡みで来たんじゃないから」
六代目、という呼称を遮ったカカシと目が合う。
そうだ。いつからかサクラは名前を呼べなくなっていた。
何も変わっていないと思っていたがサクラの生真面目さと照れからなんとなく親しい呼び名から離れていた。
この世界でたった三人だけ。
『先生』と呼んだとき、カカシを指すのはサクラとナルトとサスケ以外に存在しない。
六代目火影よりずっと大切な呼び名だ。
「カカシ先生」
前と同じように呼べているか不安でたまらない。。
名前を紡いだ口の動きがとても懐かしくてサクラは人差し指で確かめるように唇に触れた。
「なあにサクラ?」
柔らかな中低音が鼓膜を震わせる。
幻術にかかったわけでもないのに時間が巻き戻った気がして次の呼び掛けは昔と変わっていないものだ、とサクラは感じた。
「なんでもないわ。先生」
普通に笑えた、とも思う。カカシの前で笑うこともずっとなかった気がしてくる。
カカシは何も言わず酒を空けているので『先生』という呼び名は嫌ではないらしい。
せっかく二人で飲んでいるのだから手酌もどうかと思ったが、注ぐべきか否かサクラは迷う。
尋ねてみればいいだけなのにうまく言葉に出来ずもどかしくて酒を呷り盃を置き、ついでとばかりに聞いてみる。
「注ぎましょうか?」
「あー、うん。お願い」
一瞬驚いたのか、戸惑ったのか珍しくそんな様子でサクラをみたカカシの差し出す盃に酒を注ぐ。
かちりと陶器の触れ合う音がして、かすかに震える腕の振動を伝えてしまう。幾らでも言い訳出来るはずなのに何も言えないままサクラは自分の盃も満たす。
クスクスと笑う声に顔をあげれば盃を傾けるカカシがいる。
「何ですか?」
「ううん。可愛いよね、サクラは」
「はあ?」
「分からないならいいよ」
「分からないのは先生です」
拗ねるサクラが空にした盃を満たしてやってカカシはじっと愛弟子を見下ろして思案顔になる。
「なあに先生?」
何でもないよ、という答えに得心がいかないとばかりに首を傾げ、サクラは盃の中身を舐めた。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
居酒屋を出た頃には月がさっきより高く昇っていた。
空はカカシの目と同じような濃い青をしていて、強く吹く風が灰色の雲を何処かへ運んでいる。
うっすらと雲に翳ってしまった月の朧に滲む光が綺麗で眩しかった。
「サクラ」
「はい」
カカシの呼びかけにサクラは空から視線を移した。
「どうして俺以外の知り合いに会わなかったんだろうね?」
任務を終えて、里へ戻り子供たちを返して報告書を提出して街を少し歩いた。
そう広くない里で顔見知りに会わないなんて珍しい、とサクラは思っていたけれどどうやら人為的なものだったらしい。
「……先生のせいですね」
けれどそんなことをする理由を思いつかない。
「サクラと同期のほとんどは任務で外に出したし、病院の関係者は研修とか会議なんかで詰めてる」
「何がしたかったんですか?」
責めるわけでもなく、ただ呆れたふうにサクラがカカシに問いかける。
これまでカカシにいたずらをしかけたことは幾度もあったがしかけられたことは一度もない。
「我儘を言ってみたいと思った。我を通したい、ってね。思ったんだ」
くらり、と一瞬。後ろへ身体が引かれる様な目眩にサクラは片足を下げて耐えた。
髪を乱す風が耳元を掠めてごうっと音を立てるが決して目を閉じたり、逸らしたりはしない。
はらり、と。素肌を撫でる風に乗り、何処からか運ばれてきた薄紅色の花びらが一枚舞う。
それを横目で追ってからサクラがはっと、目を見開いた。
あれはきっとこの春、ようやく里に咲いた桜の一片だろう。
「サクラ。良い名前をもらったね。誕生日おめでとう」
ありふれた名前だが、己の誕生がどれ程よろこばれたか、歳を重ねるごとに気が付いた。
長く厳しい冬を過ごした里へ春の訪れを告げた桜の開花と時を同じくして誕生したサクラへの深い慈しみ。
この日に生まれたからこそ、サクラはサクラなのだ。
とん、と優しく背を押されるような感覚で、幻術が解かれる。
素直にありがとう、と言えないでいるのは容易く幻術にかかってしまった悔しさとカカシの意図が分からないせいだ。
「先生?」
「今日サクラを祝ったのって俺だけなんだ。サクラの特別な一日を俺がもらっちゃったの。ごめんね」
常と変わらない様子で眉を下げる細目の笑い顔。
サクラが聞きたいのはそんなことではなく、何故そんなことをしたのかということだ。
聞きたいのに聞けないことばかりの夜だと思いながらサクラはいいえ、と首を振った。
「ありがとうございます。私とてもうれしいです」
聞けないのなら、言えば良い。さっきのように尋ねることだって出来る。
「先生。私、先生が私を好きなくらい先生が好きだって知っていました?」
風が雲を攫い、月が影を伸ばす。