小説2

□薄氷のうえ
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薄氷のうえ


あんなにも大きく立ち回ったのだ、
あの男の名が知れないなどとはもちろん土方とて思っていなかった。

土方から仕事上の報告を受けた上司は、お気に入りの土方が出て行くのを軽く引きとめた。
極めてプライベートな話題を振って。
それからいつもの紳士的な笑みを浮かべた。
身にいわれの無い咎を問われる美しい罪人のように、
一種の背徳を含んだ目で土方は相手をゆっくりと見た。

「私とその男とはそういった関係にありません」
言えば、思いのほかその言葉は土方の内部を揺らす。
それから、土方は土方なりの冗談を言った。
「あなたがその種の心配をしてくださるなら、ですが」
冗談であることを証明するかのようににっこりと、とまではいかないが口の端に微かに笑みを浮かべて見せた。
要するに魅せたわけで、冗談はその微笑で完全にそうといえない領域に打ち上げられたが。
構わずに、人の心の機微に聡いが、色恋に関してはやや疎い土方はゆっくりと続ける。
「ですが、我々はある所で『繋がって』いる。観念的な意味で、です。
ですが私は異性愛者です。今までも、これからも」
「…では君はその男に観念的な恋愛をしている、と」

「いいえ」

観念で恋愛が出来るなら肉欲など死滅するはずだ。
土方は即物的ではないがリアリストだった。
男はふっと笑ってから何気なく袖口のカフスを触った。
土方の口を開かせる取って置きのボタンがそこにあるかのように。
「そういうのがいちばん困るんだがね」
「なぜ」
「君とその人との間に入り込むことが出来ないじゃないか」
男はいたすらっぽく微笑んだ。
「入り込む必要性があるのですか」
土方は心底分からないといった風に質問をした。
頭は良いが着眼点の異なる生徒が質問をするときの口調だった。

「『その種の心配』をしているからね」

土方は黙った。
それから、実用性よりも美しさをまず考えて創り上げられたと思しき指先を少しだけ動かした。
あるいはそれは無意識の救援信号なのかもしれない。
たすけて、という、煽り文句の。

男ははっきりと微笑を浮かべて土方の手をとった。
土方は一度、瞬きをした。
カフスは瞬きをさせるためのものかもしれない。
優美な困惑だった。

「今日のところは見逃してあげるから、食事に付き合ってくれないか」

土方は詰めていた息を吐き出して頷いた。

握られた手首の先の指がまた、少し動く。

銀時にあいたい。
そう思った。
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