イルゲネス

Nの不幸
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 その日の朝。イルゲネス軍学校寮・西棟W-9号室で、住人の片割れが洗面台の鏡に向かって盛大な溜め息をついた事を、知る者は誰ひとりとしていなかった。





 フォーティンブラスの様子がおかしい。
 ニコラスは午前の授業が終了した時点で、その事に気付いていた。
 具体的に何がおかしいかと問われれば、妙によそよそしい。
 入学したばかりの頃は周囲の人間に対し、一定の距離を保っていたフォーティンブラスであったが、最近はそれも大分緩和されていた。認めたくはないし、愉快な話ではないがジェイクィズのお陰である。
 そんなフォーティンブラスが今日は周りの人間に対し、妙な距離感をもって接している事に気が付いたのは、恐らくニコラスだけだ。
 ジェイクィズも気付いていない。いつも神経質な瞳でフォーティンブラスを見ていたニコラスだけが気が付いた。
 それほど巧妙に、フォーティンブラスは周りと距離を保っていた。
 が、距離感とは、精神的なものではなく、物理的なものである。フォーティンブラスは何故か今日に限って、己の半径50cm以内に他人を入れようとはしなかったのだ。



「フォーティンブラス、どこか体調でも悪いのか?」
 恐らく違うだろうと思ったが、ニコラスはあえてそう尋ねた。フォーティンブラスの反応を見るためである。
「……いや。特にこれといって問題は無いが?」
 何故そんな事を聞く。と、視線で尋ねてくるフォーティンブラスに対し、ニコラスは年下の同級生の頭から爪先までを一瞥してから、いつもと様子が違うようだが。と聞いた。
「………気のせいだろう」
 少しだけ長い間が、ニコラスの問いを肯定していた。
「問題無いならいいが……具合が悪いなら無理はしない方がいい」
 労りを込めてそう言い放つと、フォーティンブラスは孔雀眼を細めて微笑む。
「心配をかけてすまない」
「いや…」
 その笑みに、ニコラスの心臓に小さな痛みが走る。
 何時から、こんな笑みを見せるようになったのだ。
 こんな、年相応の笑みを見せるように──
 この変化をもたらしたのがあの男かと考えると、ニコラスは脳味噌が焼けるような思いだった。

「じゃあ、また後で」
「ああ」
 次の授業のために去っていくフォーティンブラスの背を見送り、ニコラスは誰にも気付かれないよう溜め息をついた。
 フォーティンブラスの変化は、けして忌避すべきだけのものではない。
 年頃の少年としては、悪くない変化だ。
 結局、自分はどうやったとしてもジェイクィズにはなれないのだから仕方がない。そうやって自分を宥めるしかないのだろう。
 ニコラスは、己にそう言い聞かせるしかなかった。



 と、その時である。
「うおっ!!」
 フォーティンブラスが歩いていた先の曲がり角から突然飛び出してきたのはクルダップであった。
 彼はフォーティンブラスとの正面衝突しかけるも、幸いフォーティンブラスはそんなに鈍くはなかった。
 ひらりと頭半分以上デカイ同級生の体を簡単に交わす。
 悪いと謝るクルダップと、気にするなとフォン。声は聞こえないが、そのようなやり取りをしているのがわかった。
 と、クルダップがフォーティンブラスを指差して何かを言っている。すると、フォーティンブラスはさっと走り去っていく。
 何だ? 不審そうに眉間に皺を寄せるとニコラスは、スタスタとクルダップに歩み寄る。

「クルダップ」
「お、ニコラス」
 走り去ったフォンに首を傾げていたクルダップだったが、ニコラスの存在に気付くと軽く手を挙げた。
「フォーティンブラスはどうかしたのか?」
 もう背中すら見当たらない級友の消えた方向を見やり、ニコラスがそう尋ねると、クルダップは盛大に首を傾げる。
「ん〜? 怪我ないかって聞いただけだぜ」
「何か指摘してなかったか、クルダップ?」
 確か、クルダップはフォンの何かを指差していたようだが。
 それを聞くと、クルダップは「ああ、あれは」と、己の首筋を指差す。
「ここら辺に赤い斑点みたいなもんが出来てたから、虫にでも刺されたのかって」
「…………」
 嫌な事を聞いてしまった。
 本当に意味がわからないらしいクルダップには悪いが、ニコラスはフォーティンブラスが走り去った……逃げ去った理由がわかってしまった。
 フォーティンブラスを刺した虫──金色で碧い眼の虫。
 ニコラスは自分の脳味噌の血管がブチキレそうなのがわかった。
 それでもキレなかったのは、偏にフォーティンブラスに恥をかかせんが為である。
 でなければ──

「おい、ニコラス?」
 無言で廊下の壁を殴り付けた友人に、クルダップは目を見開いて驚く事しか出来なかった。



 end...
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