イルゲネス

Fの憂鬱
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 静かな部屋に、本のページをめくる音が響く。
 本をめくるのは、現在この家──バーン家の厄介になっているフォンだ。
 夕食後、ほぼ日課になっている読書に耽っていたフォンであったが、どんな小さな音も聞き逃さない彼の耳は、こちらに近付く足音を聞き取り、本を閉じる。
 一瞬の沈黙の後、扉から顔を覗かせたのは親友・ジェイクであった。
「何か用か?」
「そろそろ時間だから呼びにきた」
「……」
 途端、フォンの眉間に皺が寄る。ジェイクの用事が、フォンにとって喜ばしい事ではないという事なのだろう。
「どうかしたか?」
「……いや」
 その渋面の意味がわからず首を傾げるジェイクに対し、フォンはゆるく首を横に振って、何でもないと短く答える。
「よし。じゃあ、行くか」
「……」
 にこやかに車椅子を押すジェイクとは対称的に、フォンの眉間に刻まれた皺が取れる事は無かった。

 フォンが退院してからしばらく経つ。
 実質歩行手段を失ったフォンは、このジェイクの実家で、ジェイクに介護されるような形で生活をしていた。
 医師からは、体力・筋力を落とさないよう言われているため、身の回りの事はなるべくひとりでするようにしているが、ただひとつジェイクの手を借りねばならない事がある。
 フォンにとって、そのたったひとつの事が、酷く憂鬱でたまらないのであった。
 それは──



「湯、熱くないか?」
「ああ、調度良い」
 毎日の風呂。フォンはジェイクに抱えられ、湯槽につかる。
 と言っても、勿論ジェイクのほうは服を着ているが。
 しかし。足が動かないから仕方無いとはいえ、毎度毎度子供か老人のように、抱き抱えられて風呂に入るのは、かなり情けないと言える。
 バーン家を訪れたばかりの頃、フォンはこの事に関して散々嫌がったが、結局他に代案が浮かばず、三日足らずで折れた。
 そもそも、体格差があるのだから力ずくでこられたら敵わない。不幸な事に、逃げる足も無いのだし。
 今ではこの状況にもすっかり諦めた。
 それでも。毎回風呂の度に渋面を作ってしまうのは、三十路男のプライド故であった。

「脚、ちゃんと揉んでおけよ」
「わかってる」
 普段使わないと、血液の流れというのはすぐに滞ってしまう。
 フォンは念入りに右足をマッサージした。少しでも手を抜こうものなら、ジェイクに倍の時間をかけて足を揉まれる。一度経験し、その際は見事のぼせた。以来、フォンはジェイクの言葉には逆らわないようにしている。
 他の事ならともかく、ジェイクはフォンの健康の事になると、フォン自身よりうるさい。パージ・チルドレンであるが故に、多少の無理で壊れるような体でないと知っていながらも、だ。
 もっとも、確かに元首時代のフォンは不健康の権化のような男であり、パージ・チルドレンでなければ、確実に過労で死んでいたであろう。
 僅かな期間とはいえ、そんなフォンの補佐官をつとめていたジェイクが、健康にうるさいのはある意味仕方の無い事かもしれない。

「じゃあ、次は──」
「いい。必要ない。断る」
 最後まで言わせず、フォンは断固とした口調で拒否する。が、それも無駄であった。
「いいから遠慮するなって」
 ひょいっと肩を引かれ、うなじを浴槽の縁に置くような形で固定される。
「……ジェイク」
「髪濡らすからな。目閉じてろよ」
 言うが早いか、シャワーのカランを捻るジェイク。フォンはひとつため息を吐き出すと、孔雀眼の瞳を伏せた。

 大きな掌が、繊細にフォンの黒髪を洗う。
 大雑把そうに見えて、ジェイクの指先は器用だ。
「痒いとこないか?」
「大丈夫だ」
 子供というより、ペットを相手にしてるみたいだな。フォンはそんなどうでもいい感想を抱きながら、ジェイクに身をまかせている。
 他人に何かを任せるというのは実に楽だ。それが信頼する人間なら尚更。
 プライドか性格か。フォンはけして他人に甘えるのが上手いタイプではない。だがジェイクにだけは、不思議と昔から頼る事が出来たし、甘える事もさほど抵抗は無い。
 多分、それはジェイク自身の性格だろう。初対面が初対面でもあったし。
 ジェイクは他人の毒気を抜く。ニコラス辺りは、未だその性格が好きではないようだが。けれど、その性格のおかげで自分は救われていた。
「髪、流すぞ」
「ああ、頼む」
 結局。どれだけ心の内で文句を言った所で、こうして甘えてしまっている。
 自分も随分丸くなったものだ。というのが、フォンの正直な感想だった。

「よし。目、開けていいぞ」
 ジェイクの指がフォンの瞼の水気を払い、髪をかきあげる。
 丁寧なものだ。なんて思いながら目を開き、体を起こす。
 些か首が痛かったが、ここまでしてもって文句を言うわけにはいかない。フォンはうなじをさすりながら、礼を口にした。
「じゃあ、上がるか」
 ジェイクは脱衣場から大きめのバスタオルを持ってくると、それでフォンの上半身を包む。
 やっぱり子供みたいだ。などと思ってしまうのは、仕方ない。
 フォンはジェイクが少しでも楽に抱えられるように、首に腕を回した。
 ジェイクも慣れたもので、片方しかないフォンの脚を抱え上げ湯槽から出してやる。

 が、今日は失敗した。
「うわっ!?」
「っ!!」
 フォンの体重のかけ方が悪かったのか、ジェイクの抱え方が悪かったのか、たまたまいつもより床のタイルが濡れていたのかは定かではないが、ジェイクはフォンを抱えたまま後ろにこけた。
 180センチ近い男を抱えてるのだから受け身などとれる筈がなく、かなりデカイ音をたてて、ジェイクは床に背中をぶつけた。それでもフォンを離さなかったのは、ある意味素晴らしいが。
「大丈夫か、ジェイク!?」
 頭こそ打ってないものの、成人男子ふたり分の体重だ。かなりの衝撃である。
「いって。腰打ったな…」
 微かに瞳に涙が滲んでいる。余程痛かったのだろう。
「すまない、大丈夫か?」
「別にフォンが謝る事じゃねえって」
 ジェイクは苦笑しながら、至近距離で覗き込んでくる親友を見上げた。
「それよりフォンこそ大丈夫か? どこかぶつけたりしてないか?」
「いや、大丈夫だ。お前が庇ってくれたからな」
「そうか…」
 ほっと息をつくフォンに、ジェイクは笑う。
「お前もわりと心配性だな。俺は丈夫なんだぞ?」
 そう言って濡れた頭を撫でてやれば、フォンは小さく息をついた。
「お前は俺以上に無理をする時があるからな。心配するのも当然だろ」
「お前にそれを言われたくねえな」
 そう言えば、互いに笑ってしまった。そう、互いに互いがどんな人物だかはよく知っている。
 だから──

「ジェイク兄さん、凄い音がしたけど大丈夫?」
 そんな台詞の後、開く扉。浴室を覗き込んできたのはジェイクの妹のセレナだった。
「……」
「ああ、セレナ。大丈夫だ。ちょっと転んだだけだ」
 硬直するフォンとは対称的に、ジェイクは心配するなとひらひら手を振っている。
「本当に大丈夫? 大きな音だったけど……」
 セレナは心配そうに兄と、その兄の上に乗っかっている半裸の親友の顔を見やった。
「大丈夫だ。心配するなって」
 ジェイクが笑ってそう答えると、セレナはやっと扉を閉めた。
 が、フォンの硬直はとけなかった。
「どうした、フォン?」
「……」
 無言でジェイクの顔を見つめるフォンの頬は、微かに赤い。その理由がわからなくて、ジェイクは首を傾げる。
「フォン?」
「お前は…」
 地の底から聞こえてくるような低い声。
 殴りたい。今すぐ思い切り殴ってやりたい。
 だが、浴室から出るためにはジェイクの手を借りなければならず、フォンは沸き上がる怒りと羞恥を自分の胸で燻らせるしかなかった。



 end...
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