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□刹那の衝動
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19XX年。イタリア。
人里から離れたとある山間部にその館は存在する。まるでホラー映画に出てきそうな大きいが古びた洋館。しかし手入れは行き届いているからかけしてみすぼらしくはなく、屋敷の前面に広がる庭の草花も瑞々しく輝いている。
そんな美しい庭園に響き青空に木霊する無粋な声は、ある人物の名を呼ぶ男達のものだった。小走りに芝生を行く男達が呼ぶ名は“ジョット”
この館の最高権力者の名だった。
「ジョット、どこにいらっしゃるのですか!?」
口許に手を翳し、まだ話は終わってないんですよと繋ぎながら駆ける彼等の額には小さな汗の滴。かなりの時間と労力を費やしても、男達が上司を見付けられぬ事の証拠であろう。
石畳を駆け花壇を横切り木立ちを抜けてもジョットはおらず、男のひとりは足を止め一度だけ深呼吸をすると屋敷に向かって踵を返した。しかしそれはけして捜索を諦めたわけではなく、他の仲間を呼び集めに向かうためのようだ。彼の灰色の瞳はどこかにいるであろう男に向けられ、他の男達もまた彼等の主人の名を叫びながら駆け出した。
「……行ったぞ」
無造作なようで実は外部からの狙撃に対し計算された林に佇む影。東洋人のように混じり気のない黒髪を結い、乾きかけの血のように暗い緋色の瞳を持った長身の男。
男は寄り掛かった樹木の枝を見上げ、また火に油を注いだのだろうと言い当てた。男達の中で主導権を握っていた部下は守護者の中でも特に、主君に甘い男として有名だ。余程の事が無い限り主の言動を咎めたり、その行方をわざわざ探そうなどとはしない。それがあの焦りよう。明らかにあの件に関してだ。
「何故私がここにいる事を彼等に教えなかった?」
「テメェと一対一で話があるからだ」
「……お前も説教か?」
「するかよ。んな無駄な事」
男はそう言って、日に弱い瞳を閉ざした。突然変異故に瞳の色素が欠落した紅の瞳は強い光に弱い。よって、日中男が屋敷の外に出る事は極端に少ないのだが今回はそうも言ってられなかった。
守護者の面々や他のファミリーに頭を下げられたからだけではない。男自身もジョットの提案…否、我儘に困惑を隠せず、苛立っていたからだ。
自分をボンゴレファミリー2代目ボスに据えるなど…
「何故皆嫌がるのだろうな。お前の実力は知っているだろうに」
「そんな事を言ってるんじゃねぇっ」
男の拳が声の散り落ちてくる樹を揺らす。落ちる葉に混じって、ジョットの言葉も落ちて来る。何故怒るのだ、と。物事の善悪もわからぬ幼子のような声で尋ねてくる。
呼吸と精神を落ち着かせるように男は一度だけ深呼吸をした。それとてさほど効果があるとは思えないが何もせぬよりマシだろう。
そんな様子を樹の上で静かに見ていたジョットだったが、男の紅の瞳が自分に向けられると再び同じ疑問を口にした。何故お前を後継者にしてはいけないのだ、と。
だから男ははっきりと教えてやった。問題はそこではない。
なら何が悪いと聞き返せば、今までで一番低く怒りのこもった声で答える。
「何故日本に渡ろうなどと言い出した」
何故今隠退などと。イタリアを、ボンゴレを離れるなどと言い出したのかと、皆困惑しているのだ。側近達も守護者も、勿論男自身もだ。
「お前が育てた組織だ。お前についてきた連中だ」
なのに何故離れようなどと思う。何故捨てようなどと考えるのだ。
そんな数多の思いを込めて琥珀色の瞳を見やれば、彼はただひとこと言い放った。
もう自分がいなくても大丈夫だ、と。
ジョットは敷き布代わりに自らの体の下に敷いていたこの館の最高権力者の証しであるマントを小脇に抱えると、ひらりと宙に舞った。
一瞬の浮遊感の後に感じる温もり。成人男性にしては細く小さなジョットの体は、頭半分以上大きく逞しい男の腕に収まる。
「ありがとな」
「……」
腕の中から男を見上げるジョットは普段部下達に見せる表情よりも幼い顔をしている。それだけジョットにとって男は近しい存在なのである。
だからこそ、何のためらいもなく笑って残酷にこう言い放つのだ。
「ボンゴレにはお前がいるじゃないか」
いつの間にその指から外したのか、ジョットの掌には指輪が握られていた。ボンゴレファミリーの象徴・ドン・ボンゴレの証、大空のボンゴレリング。
ジョットはその小さな至宝を男の手に握らせた。そして、未だ成長途中のように小さい手が己より余程男らしく武骨な拳を包み込む。
「どこの馬の骨とも知れねえ俺に、こんなもん……」
男の真紅の瞳がジョットを通り越してどこか遠くを見る。
それはこの指輪を託す男の心を奪った日本という国に対する小さな嫉妬かもしれない。そして、この大空を繋ぎ止めておけない己自身への怒りかもしれない。
「お前は私のたったひとりの息子だ」
明るく誇りに満ちたその言葉がどれほど男を傷つける鋭い刃となるか、ジョットは知らない。
「……血が繋がっている保証すら無いんだぞ」
「それは逆に言えば、血が繋がっていないという保証も無いという事だ」
ジョットの笑みに陰りは無い。男の出生を、母親がどういう存在かを知っていながら笑むのは余程の自信か。
自分が男のたったひとりの父親であるという絶対的な自信がどこからくるのか――超直感故のものかどうかすら、息子と呼ばれる彼すら知らない。
「何故あんな商売女に惚れた」
男の母は娼婦であった。上流階級を相手にする高級娼婦などではない、場末の酒場にいるような…酒と男に溺れるくらいしか救いの無い安っぽい商売女。
ジョットにとってははした金程度で命ごと買えてしまうような、そんな女をジョットは唯一最愛の女と呼んだ。
それが同情に所以するものなのか、根っからの愛情なのか、欲の体裁を整えているだけなのか、知っている者は誰ひとりとして存在しない。
だが結局の所ふたりの関係は教会で誓いのくちづけを交わすような類いのものではなく、たった一晩きりの金でやりとりされるようなものだった。だから正確に言えば男はジョットの養子でしかない。
女が厄介な客に伝染病を移され死んだ後、まだ物心つくかつかないかの男をドン・ボンゴレが引き取った時、誰ひとりとして…彼に忠実な守護者達すら、ジョットと男の血の繋がりを信じる者はいなかった。
琥珀色の髪と瞳を持ち、少年のようにたおやかな空気を持つジョット。夜闇のように光の一切ささない髪と血のように暗い瞳を持ち、幼いながらもすべてを服従させるような威圧感を他者に抱かせる男。一体どこに共通点があるというのか。
ジョットに絶対の忠誠心を捧げる者達すら疑問の声を上げるのは当たり前の事だと男自身ですら思う。
いや。それは男が心の奥底に沈めた想いを肯定するための願望でしかない。
「お前は、私の息子だ。たとえ、誰が何と言おうと」
その言葉が、どれほど男の心をざわめかせるかをジョットは知らない。
男がジョットに抱く、父と息子以上の想いなど知る由もない。
いつからだろう。幼い頃息子である事があんなにも誇りだった男を父親として見れなくなったのは。
いつからだろう。側にあり続けたいと願い続けた男の背を見る事が苦しくなったのは。
いつからだろう。絆が鎖に変わってしまったのは。
いつから――
「あの女が生きていれば、お前はイタリアを離れるなどと言わなかったか…?」
答えの代わりに与えられたのは小さな笑み。
ああ。この男はまだ愛し続けているのだ。あんな薄汚い女を。
信じきっているのだ。男が自分と愛した女の結晶であるという事を。
すべての真実を知っている女はもういない。
血の繋がりを肯定する事も否定する事も出来ない。男は一生生殺しのまま。叶わぬ恋に身を焦がし続けるのだ。
だが、最近それでいいのだと思わなくもない。
血の繋がりを否定されれば、男の罪悪感は消える。父を愛した男などという悍ましい烙印を押される事は無くなる。
けれど、それは同時に今まで自分達を無条件に繋いでくれていたものが消えるという事だ。愛し愛された、穏やかな時間を永遠に失うのだ。
そのふたつを天秤にかけた際、どちらをとるかは男の中で決まっていた。
変革より維持を。儚い夢よりも不変の現実を。ボンゴレの繁栄を願い、革新的な政策に臨んできた男らしからぬ選択である。
それほどまでに、ジョットを愛しているというのか……。
「もうこの国に未練は無い」
それは愛した女がもういないからか。それとも愛した女との間に生まれた男が、己の跡を継ぐに相応しい男に成長したからか。
それはわからないが――
「……?」
大空の指輪を握らせていたジョットの手を解き逆に己の手で握り締める。
離したくない。今は、今だけは――
「ボンゴレは、お前の好きにすればいい」
男の所作に一瞬怪訝な表情を浮かべたジョットだったがすぐに瞳を細めて息子の顔を見やる。
澄んだ色。彼の炎のように、少しの濁りもない美しい瞳。
「泣きそうな顔だな」
伸ばされた腕が自分より高い位置にある男の頭を引き寄せる。
薄い胸板に押し当てるように抱え込まれた男は非常に困難な姿勢であるにも関わらず、不思議と心が落ち着くのを感じた。規則正しい心臓の鼓動と吐息の音色は、幼少期母を亡くしたばかりで情緒不安定だった男を慰める時にジョットが聞かせてくれた音、生命が奏でる最上級の音楽だった。
「彼女を亡くし、悲しみ暮れる私を慰めてくれたのはお前だった」
心音と同じリズムで紡がれる言葉が心地良い。
「お前を世界中の誰よりも――」
ああ。その先は言わないで。
「愛している」
一番欲しくて、絶対に手に入らない言葉が与えられる。
まるで手向けのように――
「たとえ遠い異国の地にいたって、お前を思っているよ」
父として、長として、ひとりの人間として。最大級の思いを込めて。
ジョットは愛する息子の額に唇を寄せる。
それは叶わぬ初恋の終わりを告げるくちづけだった。
end...