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□手折られた剣
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まるでどこかの宮殿のような館。荘厳・優美・華麗、そんな言葉で彩られたような城の廊下を歩くひとりの男。年の頃は四十少し手前くらいだろうが、彼の持つ空気は些か鋭利過ぎて実年齢以上に彼を若く見せた。
さらさら流れる緑に輝く黒髪は髪と同系色のリボンで結われ、彼が歩く度に背で波をうつ。その髪とは対照的なくらいに白い肌には一点の曇りも無く、左の目許にある小さな黒子だけがまるで星のように鎮座していた。
そんな彼を見た者達は一瞬息を呑み、正体を知った次の瞬間にはその呼吸をつめるのだ。
彼の顔を知らぬ者でも、左腕と脇腹に記された紋章と右肩にある二本の飾り紐の意味がわからぬ者はいない。そして夜色に染められたコートの左袖の中身が無い事に気付いた全ての者が彼の正体を知るのだ。
男の名はテュール。ボンゴレ最強の名を戴く、独立暗殺部隊の長であると同時に剣の帝王と呼ばれる男であった。
テュールにとってこの城――ボンゴレ総本部はあまり居心地のよい場所ではない。いや、逆に居心地が良過ぎるから、長居したくないのだ。
彼のたったひとりの主君、ボンゴレ9代目・ティモッテオ。その人を名で呼んだ事は一度足りとも無い。父と呼んでも差し支え程の年の差があるからではなく、テュールにとって9代目は、主君で神で誓いで強さで絶対であった。
だから、そんな男が自分を息子のように思っていてくれる事に戸惑いを覚えるのと同時に、その栄誉に対し最大の感謝を感じていた。だからこそ、テュールはこの場所が苦手であった。
この城はあの方の全てが詰まっているから、ここにいると己が暗殺者であるという事を忘れてしまいそうになるのだ。
9代目の執務室の扉の前に立つとテュールは一度だけ息をついて呼吸を整え、ノックをしようと右手を上げた。が、拳がその重厚な扉を叩く前に内側に開いた。それはこの城を訪れる度、気配を消してやってきている筈の自分の訪問を9代目に悟られるのは毎度の事で、テュールは未だこの扉を叩けた事がなかった。
「いたのか、家光」
扉を引いた長身の日本人の姿に、剣帝は目を細めた。意外ではないけれど、いるとは思っていなかったという表情だ。
9代目にお話があってな。という、快活なこの年下の門外顧問らしくない濁した物言いに違和感を感じたが、入室を拒まれなかったという事は自分が入っても問題無いという事だろうと解釈し、テュールは一歩室内に足を踏み入れた。
「テュール。9代目の命を受け、只今参上仕りました」
一本しかない右腕を胸に当て深く腰を折ると、ふっと流れて来る空気にテュールは表情には出さず困惑を感じた。何時もの事ではあるが、目で直接見なくともこの部屋の主が自分に対して優しい瞳を向けているだろうと理解する。
顔を上げなさいという平時と変わらぬ優しげな声音に従い頭を上げると、テュールは違和感を感じ、すぐにその正体に気が付いた。自分の訪問を労う主君。その顔に浮かんだ微かな疲れに気付かぬ程、テュールは愚かではなかった。
「何かトラブルでも発生しましたか?」
恐らく違うだろうと予感しながらも、テュールはあえてそう尋ねた。他に上手い問い掛けが思いつかなかったというのが最たる理由であったが、それ以外に自分を呼ぶ理由が本当に思い付かなかったからだ。
テュールのそんな考えを読み取ってか、9代目は苦く微笑んだ。そして、力を抜きなさいと諭すように言われて剣帝は困惑の表情を浮かべる。主君の命令が絶対の剣帝でも、身に着いた習慣を取り除き、他者の前で心身ともに力を抜くという行為にはかなりの労力を有するのだ。暗殺者として長年身に着けたそれが、主君とその忠実な僕である自分達しかいない部屋においても気をゆるめる事を許さない。
それがわかっていてなお、テュールがこの執務室を訪問する度に9代目がその台詞を口にするのは親子程にも年の離れた彼を労ろうとしているに、他ならないからだ。
「テュール。早速で悪いが、少し頼まれ事をしてくれないかね?」
「なんなりとご命令下さい」
9代目は豪奢な机の引出を引くと数枚の書類を取り出し、机上に置いた。テュールは一礼し、アンティークなデスクにに歩み寄るその書類を手に取る。そして紙面に走る知った名を、テュールは無言で見やった。
「キャバッローネが代変わりした事は知っているな?」
「はい。先代はお亡くなりになったと聞き及んでいます」
ボンゴレの同盟ファミリーのひとつであるキャバッローネ。何度か顔を合わせた事のあるその当主が亡くなり、ひとり息子のディーノが父の敵を討ってボスを継いだという話はすでにテュールの耳にも届いていた。
あのアルコバレーノの力を借りたにしても、一組織を壊滅させた武勇は評価すべきだと世辞抜きに口にすれば、9代目の口許が微かに緩む。昔からよく知る、実子より余程懐いていたあの金髪の少年が逞しく成長した事を喜んでいるのだろうと、テュールは解釈した。
イレゴラーレのボスであるティグレはすでにいないが残党は相当数いるらしく、テュールに下された命令はその残党処理とキャバッローネの内部が安定するまで支援活動だった。
わざわざヴァリアーのボスその人を呼び付けて下す程の命令ではないが、テュールは9代目の意図を読み取り、静かに頷く。9代目が活用したいのは“ヴァリアーのボス・剣帝テュール”の名。事実虚実問わず、剣帝がキャバッローネの支援についたとなれば害なす者は確実に減るであろう。また、未だ経験の少ないディーノを戦場に送る機会は少ないに越した事は無いと思っているのだろうか。
「了解しました、9代目。すぐに手配を」
テュールはデスクに紙片を戻し、深々と頭を下げると退出の許可を求めた。しかし何故か9代目はそれを緩く首を横に振る事で許さず、年老いてなお強い意志を秘め、また慈愛を含んだ灰色の瞳を伏せた。
引き止められた理由を問う前に答えは明後日の方向から与えられた。家光だ。
「テュール、10代目候補の事だが」
その事か、と。テュールはやっと納得した。普段ボンゴレ本部に出入りする事の少ないテュールだったが、最近本部……否、上層部内で騒ぎになっている件の後継者問題については聞き及んでいた。もっとも、実子を後継者候補から外す主君の考えは読み取れないが。
「ザンザス様を、10代目候補から外されたと聞きましたが?」
「……外してはいない。俺と9代目以外の全員が、ザンザスを推しているからな」
それはつまり、裏を返せば9代目と家光のふたりはザンザスを10代目と認めていないという事だ。そして、ドン・ボンゴレと門外顧問が認めぬという事は、ザンザスに10代目ボスとしての未来はやってこないという事だ。
「エンリコ、マッシーモ、フェデリコの三人の内の誰かをと、俺と9代目は思っている」
「……お前の息子はどうするんだ?」
並べられた三人の名にテュールは瞳を細める。家光までもが、9代目と同じ事をしようとしているのかと怪訝な表情だ。
「ツナ……俺の息子は、まだ幼すぎる」
「大した親心だな」
自分で思っていたより、ずっと冷たい声が出てしまった。テュールは、そんな自分に少し驚いた。
テュール自身、親や子というものに対する思い入れはまるで無い。自分を捨てた本当の親の事などどうでもいいし、父は居らずとも9代目がいる。そして若い頃からボンゴレに忠誠を捧げてきたテュールは、未だ独り身だった。
だから、9代目のザンザスに対する裏切りに等しい行為も、家光の幼き息子に向ける愛情も、概念ではわかっても理解は出来ない。出来ないから、つい責めるような事を言ってしまう。
「エンリコ、マッシーモ、フェデリコ。確かにその三名の才は認めます」
だけれど、その三人の一体どこがザンザスに勝っているのか。ザンザスの一体どこがその三人に劣っているのか。
自分にはそれがわからない。はっきりそう告げると、9代目の瞳が悲しげに細まる。
そして、お前にもわからないかい。と囁かれ、テュールは己の失言に気付いた。
「申し訳ございません。出過ぎた真似を」
深々と腰を折り、頭を下げる。剣帝のそんな姿を見れるのは、ドン・ボンゴレその人だけだろう。
だがそれはけして叱責を恐れるからではなく、己が主君にそんな顔をさせてしまった事に対する激しい後悔からであった。
「頭を上げなさい」
怒っているわけではないのだからと告げられているのに、顔を上げたテュールはまるで叱られた幼子のようであった。
9代目は自分の息子よりずっと年をとった忠臣を諭すように小さく笑む。
そして、この話はこれで終いだとばかりに温かな灰色の瞳を伏せてしまった。
「……9代目」
かの剣帝が出したとは到底思えない不安そうな呼び声に答えたのは、控えていた門外顧問だった。
「……テュール。お前もザンザスが10代目に就任すべきだと思うか?」
まるでザンザスを10代目に推す事が罪だとでも言いたいようだ。そう思って口にしてやろうとしたのに、緩く頭を横に振って応えたのは主君の悲痛な表情を思い出しての事だった。
「私に、次期ボス就任の是非に口出す権限はありません」
9代目の御心も、家光の事情もわからない。そしてその双方を理解する事が自分には不可能だろうと悟ったテュールは早々に身をひいた。
たとえヴァリアーのボスであろうとも、剣の帝王と呼ばれようとも、介入してはならぬ事はある。その自分の分際くらいは弁えているつもりだ。
「……時にテュール」
しばしの沈黙の後、9代目はそっと瞳を開いた。その目にはもう、すべてを隠してしまっていた。
「近々決闘を行うと聞いたが?」
穏やかな瞳は確認するように、剣帝に向けられた。そこにいたのは父親ではなく一組織の長であった。
「はい。本日より十日の後、場所はヴァリアー本部敷地内の森にて」
9代目が組織の長としての表情を浮かべたのと同時に、テュールも暗殺者のそれとなっていた。
彼の脳裏には資料で見た銀髪の少年と、その若さにしては恐ろしいまでに血腥い経歴が浮かんでいた。
「名をスペルビ・スクアーロ。歳はまだ14と幼いながら、屠ってきた剣豪は総じて名だたる者ばかりです」
ヴァリアーに入ればその才はさらに磨かれるだろうと口にしながら、そういえば彼の通う学校はディーノと同じだったなとどうでもいい情報を頭の片隅に浮かべる。
無言の9代目の隣で、家光が何ともいえぬ表情を浮かべている事に気付いたが、テュールはあえて知らぬふりを決め込んだ。言いたい事はおおよそ見当がついている。
「テュール……」
「決闘を望んだのは彼です。それ程の自信があるという事なのでしょう」
私を倒すという自信が。
なんと傲慢な少年かと思ったが、不思議と腹は立たなかった。
餓鬼の戯言だと見下しているわけではない。ただ、それはある種の愛しさに似ていた。
けれど、どうやら家光にそれはわからなかったらしい。
まだ子供だなどと口にするから、そういう台詞はアルコバレーノにでも言ってやれと吐き捨てた。
裏社会に年齢なんて関係無い。そんな事、家光とてわかっているだろうに。
「キャバッローネへの支援の件もあります故、これにて失礼致します」