ブラッディクロス

□三章
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   第三章 崩壊は少しずつ


 長い夢でも見ていたかのようだった。
 目を開けていつも通りの無機質な天井を見つめながらそう思った。
 どうやら眠っていたらしい。けれど体にはひどい倦怠感があった。そして思考もぼやけている。
 僕はどうしてたんだっけ。いつ眠ったのだろう。今はいつ? 朝なのか夜なのかそれさえもわからない。明かりのついたままの部屋はひどく静かだった。
「あら? 起きたみたいね」
「うわっ!」
 突如聞こえた声に度肝を抜かれた。そんな僕の視界に赤髪の少女が現れていた。
「はーい、気分はどう?」
 ベッドに腰を掛け僕を見下ろしながらそう訪ねてくる。あまりに唐突過ぎる出来事に口を動かすことしかできなかった。
「なに鯉の真似事してるの? まあどうやら大丈夫そうね、ってそりゃそうか」
「な、ななななな……」
「なな?」
「なんで君がここにいるの?」
 至極当たり前の質問に気分を害したかのようにカリナは頬を膨らませる。
「ひどいなー。気絶してたのをわざわざここまで運んできてあげたのに」
「気絶?」
 誰がって僕か。でも、どうして?
「ん? どうやらまだ混乱してるみたいね。よーく思い出しなさい。あなたが女の子と別れてからなにが起こったのかを」
 女の子? 誰だ……。確か僕は、美羽ちゃんの誕生日会に行って……。誰と? そうだ、奈織とだ。そして誕生日会が終わって奈織と帰っていて、そして――
 瞬間頭の中にあの光景が次々とフラッシュバックした。薄暗い路地。輝く満月。そしてブラッシュと名乗った男。
「ぐっ……」
 思わずうめき声を上げていた。いつの間にか握られていたこぶしが汗ばんでいるのがわかる。
 肉食獣のような瞳。異常な存在感。そして変貌。今でもはっきりとあの獣の姿が焼きついてはなれない。迫る凶悪な爪がこの身を裂こうとしていたことさえも、思い出せた。
「僕は……どうして生きているの?」
 だがそこから先が思い出せない。避けようのなかった死。この身が裂かれる感覚すらイメージできていたのに。
「どうしてって、生きているのに不満があるわけ?」
 特に表情も変えずそう問い返された。別に不満があったわけじゃないがそう捉えられても仕方がない質問だったのかもしれない。
「君が助けてくれたの?」
「……うーん、結果的にはそうなるわね」
 なんだか歯切れの悪い答えだった。しかしあの状況で今の状況。そうとしか言いようがないと思う。つまり彼女は命の恩人というわけでお礼をしなくては失礼だ。
「ありがとう。助けてくれて」
 その言葉に彼女はキョトンとした顔を見せた。
「え? どうかした?」
 今度はクスクスと笑い始めた。どうしたものだろう。なにかおかしなことでもしたのかな。
「……ううん。なんだかびっくりするくらいありえないものを見れたからつい、ね」
 なんだかよくわからない理由だった。よほどおもしろかったのかまだ笑っている。
 そういえば僕はどうしてこんなに冷静に彼女、カリナとこうして会話しているのだろうかと疑問を抱いた。普通ならもっと驚いたり警戒したりするものではないのだろうか。けれど僕は当たり前のようにカリナを受け入れていて、その疑問に対する答えもないので些細な感覚だったのだろうと考えるのを止めた。
「さて、そろそろおいとましますか。疲れてるみたいだしね」
 そう言ってベッドから腰を浮かし立ち去ろうとする。そんな彼女を追いかけるように体を起こした。
「えっ?」
 横たわっていたベッドから体を起こした瞬間、猛烈な目眩に襲われた。視界が暗くなり世界が歪む。正常な姿勢を保つことができなくなりよろけて体が傾いていくのがわかった。
 それを止めてくれたのはカリナだった。両肩に手を当てて倒れそうになっていた僕の体を支えてくれた。
「大丈夫?」
 そう聞かれたが返事をすることができなかった。すぐ近くにまるで精巧に作られた人形のような顔が。惹きつけるような赤い瞳が覗き込んでいる。両肩には軟らかくて暖かい感触。一瞬思考が停止してしまったかのようだった。
「えっと、大丈夫?」
 二度目の質問にやっと我に返り慌てて体を離した。これ以上近くにいたらなんだか危ないように思えたからだ。
「だ、大丈夫大丈夫。ありがと」
 多少どもりながらもきちんと返事をする。そんな僕の様子に対して訝しげな顔で覗き込んでいたがまあいっかとでもいうように身を引いてくれた。なんだか助かった。
「あんまり動いちゃダメよ? 多分今貧血みたいな症状になってるはずだから」
「貧血?」
 確かにあの目眩は貧血のときと似たような感じだった。おそらく傷だらけで結構出血していたのだろうと思った。しかし今体を見てみても傷が見当たらなかった。
「ああ、傷なら治したから安心していいよ」
 そんな僕の様子に当たり前のようにそう言う。傷なら治したと。
「治した? どうやって?」
 単純な疑問がすぐに口に出た。いくら小さな傷でもこんなに早く痕がなくなるほどきれいに治せるはずがない。絆創膏や包帯を巻くくらいが関の山だ。
「んー、その質問に答えてもいいんだけど話すと全部話さなくちゃならなくなるし。今日は疲れてるみたいだからね」
 そんな彼女の言葉に浮かぶのはあの獣の男の姿。普通ではない、異形。ならばこのことも普通ではないようなことが関わっているのだろうか。
「でも、これでわかったでしょう?」
 彼女の言葉に少しの変化を感じた。瞳は真剣に僕を見据えている。目を、逸らせなかった。
「あなたは狙われているって」
 それは初めて彼女と出会ったときに聞いたセリフ。あなたは狙われている、と。
「……それはあの男のこと?」
「ええそうね。そしてそれだけじゃない。まだ終わっていないわ」
 それは、まだ別の誰かが僕を狙っているということなのだろうか。
 今までの日常が遠く離れていったような錯覚に陥った。普通ではありえないこと。日常では起こりえないこと。そんなどうしようもない異物が体の中にねじ込められているようだった。
「どうして、僕なの?」
 今まで何も起きなかった。何も起こさなかった。悪いことも目立つこともした覚えはないはずだった。淡々と他愛のない日々を過ごしていたはずだと思った。
 そこで引っかかったのはなんだったのだろう。心の片隅に残ったのは、今までという言葉だった。
「うん、答えてあげたいのはやまやまだけど今日はもう休んだほうがいいよ。明日も学校でしょう?」
 いきなりの日常的な言葉に面食らいながらも確かにそうだと思った。体は思っている以上に疲れているようで少しずつ意識が薄らいでいる。
「まあ説明はまた今度ということで。鍵は勝手に使わせてもらったからテーブルの上に置いとくね。寮だし大丈夫でしょ? じゃあゆっくり休んでね。また明日」
 ぱっぱっと用件と別れを告げて去っていった。その様子をただ見送ることしかできなかった。
「うん、なんだったんだろうね。なんだか疲れたよ……」
 今日はいろいろなことが起こった。楽しいこともあったし、苦しいこともあった。もう少しで死んでいたかもしれない。それでも生きている。あのとき僕は必死で生きようとしていた。がむしゃらに手を伸ばしながら。
「あれ?」
 ふと右の手のひらを見ると包帯が巻いてあることに気づく。治したとカリナは言っていたけどどうしたことだろうか。不思議に思いながら何度も見る。まあ別に大したことでもないかと思考を放棄しベッドにどすっと横たわる。すぐに眠気が襲ってきた。
 薄らいでいく思考の中でふとある言葉が疑問として浮かびあがってきた。
 また明日、って言ってたっけ。
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