story

□梵天
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「悪さなんぞ、生きてるうちにするものではありますまい」

薄暗く、辛気くさい場所だった。月光も届かぬ森の唯一の明かりは、不規則に並べられた不気味に揺らめく蝋燭の灯り。訪れるのは何年ぶりだろうか。
かつてはこの森は深く強く生い茂り、生きていた。しかし主が風前の灯火となりつつある今、木々や草花は力なく枝を垂らし、悲観しているようだった。

紅をさした真っ赤な唇が綺麗な弧を描く。見慣れたそれは妖艶より不気味で、美しいより奇怪に映った。鬱蒼と細められる黒い虹彩に囲まれた瞳は、ただ目の前に佇む自分を映している。目元に落ちる影は深く疲労の色を表し、今目の前にいる彼女が弱っていることを示唆していた。
幼少の頃より幾度この妖を見たことか。
かつては天座の主の友人として名を轟かせた女妖は、今はただ衰弱の一途を辿っている。無様だと思う反面、どうしようもなく虚しい。

「妖とて例外じゃありませんよ、天座の。悪事は等しく悪事であります。」
「フン。なら動物を餌にする妖や人間は悪事を働いているのかい。」
「それはまた別のお話。」
「都合がいいね」
「でなければ私の仕事が追いつかないでしょうに」

クスリと笑って、彼女はもう一度「悪さはしてはなりませぬ」と繰り返した。蝋燭の火が揺れ、彼女の目の光が弱まる。

「火車に体をバラされて町中にさらされます故」
「それが君の仕事だろう?罪人の体をバラして死体を蹂躙して、見せしめる」
「妖、人間、意志あるものは、等しく、ね」
「悪趣味だ」
「なれば悪さはなされるな」

貴方のお美しい肢体を切り刻むなど心苦しい。
爪が伸びた指先が首筋に触れる。白く細い骨を思わせる指は冷たく、触れられた箇所から怖気が流れ込んでくるようだった。僅かに眉をひそめれば、彼女は指を上へと滑らせる。首筋から頬へと移動する手を掴み、目を伏せた。彼女は小さく笑う。

「ああ、そうだ。ちなみに私の罪は後世が清算しますわ。せいぜいばらまかれる我が身を看取ってくだされ。」
「馬鹿な話だね。罪人の死体をばらまくのが仕事なのに、死んだらそれを罪とされ自分がばらまかれるのかい」
「だって、倫理に外れておりますでしょう?」
「矛盾してるよ」
「天座の君はお優しいお方だ。」
「じゃなかったらわざわざ君を看取りに来ないさ」
「白緑殿との約束でございますか」
「世話になったからね…」
「あなたの幼きころが懐かしいですなあ。あの頃はこんなに小さかったのが、ずいぶんと大きくなられた」
「……」
「これなら何も…心配することなく逝けそうです」

その手は掴んだまま。手の甲から伝わる冷たさは、既に中身≠ェ半分以上この世からはがれかけてる証だろうか。輪廻しようとする魂と、今だ留まろうとする肉体、精神。笑みを絶やさないのは、せめてもの虚勢だろう。死期を間近に彼女は笑う。

「死にたくない」
「……」
「なれど身は保たぬ」
「……」
「死体を見せしめにされたくない」
「……」
「なれど、私は他人にそれをした。」

酷い生涯だった。
カラカラと音を立てて車輪が回る。ぼんやりと蝋燭の火に照らされた橙色の空間は、重く悲しい空気に満ちていた。呼吸のたびに肺腑を満たすその空気に、形容し難い感情に飲まれそうになる。手を握り直し、そっとこちらに引き寄せた。

「ねえ」
「何か?」
「だったら、俺が君の死体をもらいうけるよ」
「おやまあ、悪趣味な」
「せいぜい感謝するんだね」
「ではどうか湖にでも沈めてくだされ。さすれば火車とて手は出せまいからな」
「注文が多いね」
「天座の君よ」
「……」
「感謝奉る」

綺麗なまま、葬られたならそれこそ本望だ。
しかしそれは利己心でもある。その役目を負うのは生きるための義務であり、また他を裁く権利でもあった。彼女たちに許されたこと。彼女たちだから許されぬ罪。死後肉体をばらまかれるのが権利に対する報復なら、なんて不条理な習わしだろうか。今、目の前にいる女妖が死んで、手足を解体さればらまかれたとする。きっと自分はそれに耐えられない。それは一概に彼女を無関係だと言えないからだ。
そうだ。誰だって同じだ。罪人だろうが悪人だろうが大切な存在ならば、綺麗な死を望みたい。

生きて罰を受けて、死して蹂躙されるなど耐えられない。たとえそれほどの罪だとしても。

「さて…行こうか」
「フフ、逃避行とは素敵な喜劇でありますな」

細く骨のような手を引き歩き出す。手のひらから伝わる冷たさに、何かを引き止めるように強く握った。ああ。もう彼女は逝ってしまう。
総ては利己心にすぎない。しかしどうしても連れ去りたくなるのは、世界に対する唯一の抵抗だった。だからどうか。




火車が来る前に。








20100312

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