story

□イタチ
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※「さかさかな」の自傷壁ありなイタチ


突然だった。
手首に固く温い感触が走り、肩がビクリと震える。
普段なら決して外界に晒そうとはしない、常に組織の装束で隠していた部位だ。それはもちろん醜い皮膚に少なからず嫌悪を抱いていたからである。それにだけに他人には決して手首を見せなかったし、それを晒すのは一人でいるような時くらいだった。

長い間を置いた後に、緩慢な動作でベッドに横たえていた上体を起こす。眉をひそめて手首にある違和感の原因を睨んだ。

「…何してる」
「………」

声を発すれば向けられる瞳。あまりに不可解な彼女の行動に眉をひそめる。いったい何を考えているのか、獣の如く手首に噛みついている彼女を見た。

彼女は、この組織内では名目上上司という形で自分の傍らにいる忍だ。この手首の傷のことも知っている。それが起因しているのか、彼女は組織内では会話する頻度が一番高い人物でもある。心なしか信頼に近いものもいつの間にか抱いていた。だからこそこうして手首を晒すことに何の躊躇いもないのだろう。

噛みつかれたまま再び長い間を置く。彼女は自分を見たまま時間が止まったように動かなかった。
常々変わった人だとは思っていたが、とうとう狂っってしまったのか。「腹が減ったなら他を当たれ」と言ってはみるが無反応を返される。思わず深くため息を零した。
しかし次の瞬間に鋭い痛みが走る。彼女が噛みついている顎に突然力を入れたのだ。
歯が皮膚に食い込む。下手したら食い千切られるのではないかというほど強く噛まれ、平静を装っていた顔もさすがに歪んだ。

そしてようやくそれから解放されたころには、血こそ出てはいなくともくっきりと赤い歯形が残っていた。眉をひそながらそれを眺め、ついで彼女を見る。彼女はニヤリと笑って、口を開いた。

「痛かったんだ?」
「…当たり前だ」
「そう、なら良かった」
「?」

意味が分からない。当たり前のことを聞いて何が楽しいのだ。かすかな苛立ちを覚え訝しげな視線は睨みに変わる。すると彼女は細い指をこちらに伸ばし、トンと心臓の辺りを軽く突いた。

「痛みは自分から架すものじゃない。他人から与えられるものだよ。」
「……?」
「痛みは生存本能そのもの…慣れてしまってはいけないよ…」
「………」

視線が手首に落とされる。歯形の下には、くすんだ色の歪な傷が浮かんでいる。
彼女は小さく悲しげに笑って、静かに部屋を出て行った。手首がやけにジリジリと痛む。





廊下へ出るとずいぶんと珍しい人が立っていた。仮面の奥の赤い瞳が静かに私を捕らえて、かすかに笑う。そして私が出てきた部屋のドアを見ながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「イタチのお気に入りか」
「逆です。彼が私のお気に入り。」

笑みを貼り付けて返せば、その人は再び笑う。そして壁に寄りかかり、どこか遠くを見るように虚空を見つめていた。
組織の統率者、いや、黒幕といった方が正しいのか。彼の存在に本当は緊張から心臓が暴れているのを必死にかみ殺して、私は平静を装った。
不意に訪れた沈黙が痛い。知らぬ間に幻術をかけられてしまったかのような錯覚さえ覚える。それがたまらなく私には怖く、逃れるように意を決して口を開いた。

「彼を」
「……」
「どうするつもりなんですか」
「………」

向けられる瞳。心臓が跳ねる。必死に張っている虚勢はきっと、見破られてしまってるだろう。それでも尚この場に佇む自分が、少しだけ恨めしい。

「…彼は…」
「イタチを救いたいのか」
「……」
「なら無理な話だ。すべてヤツが自身の意志で決めたことだからな…」
「あんな惨いことを…」
「ああ、そうだ。あれはあまりに惨い決断だ。だがヤツはそれを望まれたんだ。そして応えた。」

救いようがないだろう?

その人は笑いながら言った。どこからともなく冷たい風が吹き込んできて、心臓を絡め取る。体温が下がった気がした。言いようのない感情が黒く揺れて、霧散する。


「誰もヤツを救おうとはしなかった。優先されたのは里だ。…いや、イタチにそう決断させた者自身だ。」
「……」
「結局は保身だ」
「私は…」
「お前には無理だよ。イタチの真実を口にしたところで誰もお前の言うことなど信じまい。それどころか罪人として処刑されるだけだ」
「…私も何ら変わらないじゃないですか…」
「……」
「私も死ぬのが恐くて何もできない…」
「………」


こうしてる間にまた一つ。彼の傷は増える。死にたくても死ねない彼は、そうすることでしか安定を保てない。自らが架す痛みを、痛みとすら認識できないのだ。
それを知って尚何もできない私は、なんて非力なんだろう?

いや、結局は非力を理由に何もしないだけだ。
里に命を狙われている以上自ら死に飛び込むようなことなどしたくない。総ては保身に繋がる。私はきっと醜い。
それがたまらなく嫌だった。







20100207

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