交易品

□いちまんHITフリー
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「ーっ!!」

突如聞こえた声にならない悲鳴で飛び起きた俺は、続けて聞こえたガシャンと物が落ちる音がした方…
宿の部屋の洗面台の方に駆け付けた。
コップが破れて水浸しになっているそこで口元を押さえて蹲っていているリオンは、涙目でこちらを見ただけで言葉を発さない。

「何かあったのか!?誰かに襲われたとか…」

駆け寄って尋ねると、そんな物騒な事じゃあないと小声で否定したリオンは、それだけでも痛そうにして、けれど言葉を続けた。

「…歯が、痛いんだ」

「は…?」

それが虫歯だと気付くのに、少し時間を要した。


僕らの旅行記
〜幸せは痛みを伴う事もある〜


てな訳で。
俺達は丁度泊まっていたノイシュタットの下町にある、街の歯医者にやって来た。
まだ診療開始時間の少し前だから、待合室で待たせてもらってるんだけど。
しかしノイシュタットで良かった。
この国は医療保険制度があるからな、安く済むよ。
それはそうと、初めて歯医者に掛るらしいリオンは最初すごく嫌がった。
でも『今行かないともっと痛くなるぞ』という強迫まがいの事実をつきつけたからか、今はすごくおとなしくソファに腰かけている。
それ程に痛いって事なんだろう。
俺も初めて虫歯になった時はいっそ歯を引き抜こうかと思ったぐらい痛かったもんなぁ。
親知らず抜いたバッカスが暫く喋れなくなったから、あぁ早まらないでよかったと思ったけどね。
と。

「…毎日歯は研いていたんだがな…」

痛さと緊張で体をこわばらせるリオンが、ちょっと泣きそうな声で呟いた。
確かにリオンは毎日朝晩欠かす事なく歯を研いていたけど、まぁ…

「こういうのはなる時はなっちゃうモンだからなぁ」

逆に研かなくてもならない人ってのも居るからな。
気休めとまでは言わないけど、所詮予防なんか完璧じゃないって事だろうね。
しないよりはした方がいいのは間違いないけど。

「…頭から信じた僕が馬鹿だった…」

あ、すっごい悔しそう。
なんてやってる内に時間が来たらしい。

『エミリオ=ジルクリフトさん、どうぞ』

保険証の関係上本名で呼ばれたリオンは立ち上がると、診療室のドアの前まで歩いていってから…
何故か俺の方に振り返る。

「………」

「………はいはい」

その眼差しが不安だから付いて来てくれと物語っていたから、俺はやれやれと立ち上がった。


さて。
一度でも虫歯で歯医者の世話になった人はわかると思うけど、拷問台にも見える椅子に座らされた後に付き添いが出来る事は殆どない。
せいぜいが励ます程度で、痛みを和らげるなんて芸当が出来る筈もない。
またお医者さんはお医者さんで『痛かったら手を上げてくださいねー』なんて言うくせに上げたところで我慢を強いるし、つまり一度ドリルで歯を削られはじめたら終わるまでは脱出不可能。
つまりプライドのあまり麻酔を拒んだリオンの歯を削り終わる頃には、リオンは痛みにこらえ疲れてグッタリしてしまったって訳だ。

「痛いって、手を上げたのに…」

オマケにプライドも崩されて、痛みと屈辱で泣きそうなリオンの頭を撫でてやりながら、俺は続く展開を予想して視線をそらす。

「じゃあ挿し歯が来週出来るまでとりあえずゴムで埋めとくよ。熱いかも知れないから我慢してね」

「ーっ!!」

声にならない悲鳴を上げたリオンから助けを求める視線が向けられているのを感じながらも俺は視線を戻さずに。

「これ我慢すればとりあえず痛くなくなるから、頑張れリオン」

「…わかった……」

助けは来ないと悟ったリオンは、力なく頷いた。
でもゴム入れなきゃホントに痛いからな、我慢するしかないんだけど。

「んーっ…!!」

苦しむリオンをどうにも出来ない自分がもどかしくて、俺はリオンの手を強く握った。



ところで、産まれたばかりの人の口には虫歯菌がいないという話を知ってるだろうか。
キスをしたりといった事で他人から移る物だから、虫歯になるのは愛されていた証だって話は、昔お世話になった歯医者さんから聞いたんだけど。
リオンはあんな境遇だから、誰からも…
親からもキスをされた事がないらしい。
つまり、この虫歯はリオンとよくキスをしている俺が、虫歯菌を移したせいなのかも知れないって事だ。
それだけなら俺だけのリオン、みたいに感じられて嬉しいけど…
今そんな事を言ったら俺の背中でグッタリしているリオンが暴れだすのは明らかだし、虫歯の辛さは俺も身をもってわかるから、今は心の中にそっとしまっておこう。

言えば喜んでもらえる自信はあるけどさ。
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