玉響

□翠蔭
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微かに響いたピアノの音、その奏者を見た瞬間、広岡はすべての偶然に感謝しようと思った。









授業以外では滅多に訪れることのない特別教室棟の、用があるのは理科準備室だ。
午後の授業で使うプリントを運ぶ役目を果たすため、昼食後の重い体をどうにか奮い立たせて職員室に向かえば、担当教諭は席を外していた。
ご丁寧に隣の席の教師に、日直が来たら理科準備室へと言い残して行ったらしい。
面倒な日に当たってしまったなぁと、広岡はゆっくり歩みを進める。
廊下は方角によっては薄暗いのに、窓付近の空気はぼんやりと明るく熱を持つ時間帯。
梅雨の明けた夏の校舎がそこにあった。





特別棟二階の北側奥に位置する理科室を、本来の目的であったプリントは持たずに後にする。
生物教師曰わく、印刷室に置いてあるから持ってってだそうだ。
印刷室は先程訪れた職員室のすぐ横にある。
何でわざわざここまで足を運ばせたのか、口には出さなかったが文句たらたらなのが顔に出ていたようで、生物教師はこう言った。
「やー、日直さんに呼びに来てもらわないと授業あるの忘れちゃいそうだからさ〜」
軽く頭に来た広岡だったが、相手をするのもアホらしくなって大人しくその場を立ち去った。
理科室からある程度離れたところでゆっくり立ち止まり、ふっと溜め息をつく。
高校に入学して三ヶ月が過ぎた。
特別楽しいわけではないが、何かに不満があるわけでもない。
そうやって三年間、無為に過ごしていくのだと、なんとなく思った。

ぼやけた思考を邪魔するように、聴覚が反応した音があった。
「……………」
断片的に流れるピアノの音は、広岡の左側にある三階へ続く階段の向こうから聞こえてくる。
記憶にあるだけのピアノ曲のデータと、ばらばらのパズルのピースのように演奏される曲を繋ぎ合わせる。
「………ショパンか、な」
それにしても、なんだかヘンなところでつっかかるピアノだ。正直上手いとは言えない。
音楽教師が弾いているのか、だとしたら選択授業で音楽を選んだ人はちょっとえっと思うんじゃ、などと考えながら三階への階段を上る。
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