□やさしいキスをして
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「望くん!」
今日もあいつは、可愛い声で兄貴を呼ぶ。
頬を赤くして、ニコニコして。
「ただいま、ももちゃん」
今日も兄貴は、俺よりもあいつに先に視線を向ける。
……1ヵ月ぶりに会った弟よりもね。
「荷物持つの手伝うね。よいしょっ」
なんで自分の荷物なのに、平気でこいつに持たせるの?
あぁ、ウザイ。
なんでそんなに、嬉しそうなんだよ。
「のんちゃんも手伝って?」
「うるせぇよ。ガキみたいな呼び方してんなよ」
「えっ、あっ、ごめんね」
なんで俺、こいつに八つ当たりしてんだ。
仕方なく大きなショッピングバッグを彼女の手から横取りすると、手ぶらになったそれで兄貴のジャケットの袖をちょこんと掴んだ。
高校二年の夏。
ロスに一ヶ月の夏休み留学へ飛んだ年子の兄貴が、軽やかに帰ってきた。
俺達の幼なじみである百華は、それはそれは上機嫌にここ、成田空港までお出迎えに来た。
来るんじゃなかった。
この一ヶ月、そんな顔なんて、見れなかった。
どうしてそんなに、兄貴がいいんだろう。
俺って、あいつにとって……何だ?
――兄貴がロスに発って数日後。
あのときは、百華のヤケ酒に付き合わされてた。
深夜に家抜け出してカラオケ行って、小さな部屋に二人きり。
カクテルやチューハイで酔っ払いながら、恋愛系ばっかり歌って。
しまいには、泣き出して。
「のんちゃ〜ん!私、寂しい〜!うぇーん!」
そりゃ、知っていた。
見てれば、すぐにわかる露骨さだった。
あいつが兄貴を好きなことくらい。
だけど、泣く程のことか?ってそんな彼女に引いてた。
仕方なく慰めてたら、いつの間にか俺の膝枕で寝てて。
「……無防備だな」
俺といるだけなら、スッピンだし。
部屋着のままでも出掛けるし。
ペラペラ生地のキャミソールワンピースの裾なんかシワ寄って太ももあらわだし。
でも…
いつもの兄貴好みらしい香水の匂いよりも、洗いざらしのシャンプーの匂いのほうが、俺は好きだ。
「百華……」
膝の上の寝顔を見つめながら、髪を撫でた。
何故だかわからないけれど、名前を呼んだ。
「百華……」
胸が締め付けられるようだった。
こんなにも兄貴を想い泣いている彼女は、真実を知らない。
兄貴の留学の、本当の理由を。
「百華……」
叶わぬ恋。
報われぬ恋。
泣き顔なんて、見たくないのに。
俺に向ける笑顔が見たいのに。
「百華……」
何度も何度も繰り返し呼んだって、彼女は目を覚まさない。
兄貴の声なら、違うのか?
そんな虚しい疑問を胸にしまい込んで、膝枕を外した。
そしてソファーへ手をつき、寝息を感じる程に顔を近づけた。
そうか。
そうだったんだ。
こんなにも苦しいのは、
こんなにも近い彼女の心が、
こんなにも遠いからだったんだ。
「百華、好きだよ」
やっと理解したこの気持ちを言葉にしても、やっぱり彼女は目を覚まさない。
「百……」
また名前を呼ぼうとしたら、彼女はうっすらと瞳を見せた。
それから、微笑んだ。
「望くん…大好き」
すっと手が伸びてきて、近いくらいだった距離はゼロにされた。
唇に、柔らかく温かい感触。
長すぎるくらいに続いた、やさしいキス。
慣れた仕草だと、すぐに理解った。
あぁ、そうだったんだ。
きっとあいつは、この純粋な恋まで汚してしまっているんだ―――
いったいどれだけ、何人を傷つけるつもりなんだろう。
俺は、絶対許さないよ。
なぁ、兄貴……?
秘め事や
偽りや
苦しみや
………君の笑顔を守るために、
俺は生きていくよ。
叶わぬ想いを
それだけを支えにして。