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□我が闇を食らう蛇
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たとえ姿が見えずとも
たとえ声が聞こえずとも
たとえ肌が香らずとも
闇の中に、彼は沈んでいた。視覚だけでなく、聴覚も嗅覚も、“無”という闇にどっぷりと遣っている。
かつて何百年と過ごした牢獄を思い出さないでもなかったが、この状況はあの時以上だった。
−−眠っているのと変わりない
思考しているのか、声に出して呟いているのかも分からない。
−−死ぬということはこういうものだろうか
恐怖でも感動でもなく、石が石であるように、草が草であるように、そう感じた。ただし、本当に死んでいるのではないから、雲を見てクジラの形だと思うような感覚に近いかもしれない。
これから先、経験する確率が最も薄いその現象を、彼は恐れているでも待ち望んでいるでもない。万が一その瞬間が来たならば、ただただ驚愕するばかりだろう。
−−しかし、腹だけは減るものだな
常人が体験すれば何分と保つかどうか分からない空間に、どのくらい浸かっているだろう。
彼は至って冷静で、むしろ穏やかな気分だった。
映画が無いのは寂しかったが、ずっとこのままで居ても良いかと思い始める。そのうち足元から闇に溶けだして、いつの間にか闇そのものに加えられるとしたら、それもまた悪くないとも思った。
だが、
次の瞬間、自分がまだ体を保っていることを、はっきりと思い知った。
ぬらり、と背中に触れるものがある。
唐突な感触に、肩がひとりでに跳ねたのを感じた。
ひどく滑らかで、低温なそれは、ゆっくりと肌の上を這い回る。背骨を上下に往復し、肩甲骨の形を辿る。
それが動く度に、一瞬光が照らしだすように、自分の輪郭を思い知る。
いつの間にかそれは二つになり、左右の肩甲骨から肩へ登り、その広さを確かめるように左右対称的に動く。時折行き過ぎたように太い首を包んだ。
やがて、それらに“愛でられている”と感じた。
そして。
細く長いものが首に巻き付き、柔らかなものが背中に押しつけられる。それ以上に柔らかなものが耳朶に触れ、緩い風が耳の奥に吹き込んだ。
それら全て、温度が低い。
冷たいとは言えない。
生温いとも違う。
もっと、ゼロに近い温度。
それは、彼の、常人よりも高い体温まで示してみせる。
そして、湿気を含んだ風は、彼の名前を−−否、彼が名前代わりにしている象徴を型取った。