6学園テキスト

□5 出会い、別れ、出会い、未来。
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翌朝。


「なっ、何してるんだ、ネズミ!」


紫苑の叫び声で目が覚めた。


「ん、ん……はよ、紫苑」
「おはよう。じゃなくって! ネズミ、寝ぼけてる? ぼくの言葉聞こえなかった?」


紫苑がぎゃーぎゃー喚く中、寝起きで回転が遅い頭が少しずつ覚醒していく。
ここは、紫苑の部屋。
昨夜、ベッドには近付かなかったものの、寝ている紫苑を眺めていたくて離れた壁に寄り掛かっていた。
闇夜に目が慣れ、加えて窓から差し込む月明かりのおかげで、電気をつけなくても充分に紫苑の姿は見えた。
そのまま気が済むまで眺めていたかったのに、気が緩んでいつの間にか眠り込んでいたらしい。
……で。紫苑は何を騒いでるんだ。おれがあんたの部屋で眠っていたからか? さすがに嫌だったのだろうか。


「まだ春先だぞ。布団もかけないで、そんな薄着で、一晩中そこにいたのか?」
「ん、悪い、部屋に居座ったのが気に障ったのか? 安心しろ。あんたの部屋を荒らすほど、おれは落ちぶれちゃいないから」
「そうじゃなくって!」


紫苑は今の今まで自分がかけていた毛布を引っ張りあげ、おれに大股で歩み寄る。怒ったような、苦しいような顔をして。
おれはその顔を見上げながら、逆にこいつはこんなに厚着で暑くないんだろうか。と余計な考えを巡らせていた。


「油断してると」


目の前まできた紫苑は勢いよくしゃがみ込み。毛布をふわりと広げて、抱きすくめるようにおれにかぶせた。


「風邪ひくぞ」


まだ暖かい毛布。紫苑の身体の熱。
寒さは感じていないと思ったが、毛布をかぶせられた途端、実は芯から冷え切っていたことに気付いた。
体温程の温みに温まった毛布が、おれには燃えるような暑さに感じられたから。麻痺していたらしい。
身体も、心も。


「わっ、冷た」


おれの冷たさに驚いた紫苑だったが、だからといって怖じけづきもせず、おれを暖めようとしてきつく抱きしめてきた。
毛布越しに感じる、紫苑の体温と息遣い。ぐるりと回した手で、ゆっくりと背中を摩ってくる。
少しでも、おれが暖まるように。
……こんなことを、ルームメイトというだけの赤の他人に躊躇することなくできるなんて。
きっと紫苑は、物心ついた時からあの母親にこうして暖められてきたのだろう。まるで親鳥が卵を暖めるように、純粋に、無垢なひたむきの愛情で。
それをおれは、受け取りたいと願う。親から受け継いだ暖かいものを、他人の紫苑から。
気持ちのいい熱に、おれも無意識に腕を巻き付けていた。他人の体温を厭わしく思わないなんて、初めてだ。
なぜだろう。紫苑にやられると、無性に気持ち良い。見栄も恥じらいもなく、素直に甘えることができる。
やはり、おれは紫苑が好きだから。だから嫌悪も抱かず、されるがままでいるのだろうな。


「……ネズミ?」


子供のようにしがみつき動かないおれに、紫苑は声を掛けてくれる。


「……ないから」
「え?」
「布団。持ってないから。寝床もないし。だから、どこで寝ようが同じだろう。ならせめて、人がいるところの方がいいかと思って」


布団がないのは事実だが、それ以外はただの建前。
本当は違うよ。あんたと、片時も離れたくなかったんだよ。
そんな気持ちを汲み取ることもなく、紫苑は申し訳なさそうな顔になった。


そういえば、家具は後から揃えるって言ったっけ。あの鞄ひとつで来たのだから、寝具など持っていなかっただろう。
そこまで察することができなかった。これは、ぼくの責任でもある――。


曇った表情がそう言う。きっと、そう思っている。あんたを責めてるんじゃないんだけどな。


「ネズミ、それは」
「あんたのせいじゃないから」


紫苑が口にする前に、言葉を被せて遮った。
優しいあんたに、自らを責めてほしくない。だからおれは、宥め落ち着かせるような声を出す。


「おれ、寒いの慣れてるし。布団とか持ってこなかったのは、自分の責任だから。紫苑、気にするな。ほら、今日はおれの初登校日だ。さっさと支度をして、遅れないうちに行こうぜ」


身体の冷たさは消え失せていた。むしろ、最初から感じていない。紫苑に触れたから、認識しただけ。
本当はずっとずっと触れていたい心地よさだったけれど、さすがにそういうわけにもいかない。
回していた手を緩め、軽くポンポンと背中を叩く。
目を覚まさせてやるように。気にすることは何もないと、安心させてやるかのように。


さて。この部屋の冷蔵庫には、何か入っているのだろうか。
まあ、もし何もないのであれば、食堂に行けばいい。
でも、できれば行きたくない。紫苑を、独り占めしたいから。


結局冷蔵庫には、飲みきりサイズの紙パックの牛乳しか入っていなかった。
紫苑が買い置いていたパンがあったから、それを貰った。
他には、お湯で溶くインスタントのスープ。
この部屋にある食物はそれで全てだった。
聞けば、朝食は部屋でパンを、昼食は沙布と購買の弁当を、夕食は食堂でその日食べたい物を食べるらしい。
自炊はしたことはないと言い、調理器具は何もなかった。こりゃ、色々と揃えなきゃな。
コンビニで買ったという惣菜パンを頬張りながら平然と語る紫苑を、頬袋を持つハムスターのようで可愛いと思いながら見ていた。
紫苑が歯を磨きに行ったのを何の気無しに見送って、おれはその場の後片付けをしながらあるところに電話をかけた。
しばらくのコールのあと、肩と耳に挟み込んだ携帯から眠たげな男の声が聞こえる。


「あ、支配人? おはよーございます。ちょっと、欲しいものが増えたんだけど……」


台ふきんを洗う手はそのままに、おれは欲しいものを連ねた。









「ネズミー? 支度できた?」


鞄に教材を詰め終えた紫苑が、遠慮がちに部屋の扉を開いた。律義に、三回ノックをしてから。
そのまま勝手に開けてもいいのに。おれはそう思うものの、紫苑にはそのような習慣はないらしい。
つくづく、よくできた坊ちゃんだ。


「ネズミ、……あ」


隙間から顔を覗かせた紫苑が、小さく声を上げた。


「なんだよ」
「いや、きみ身長があるから、ブレザーがよく似合うなって思って。まぁ、ブレザー以外になんでも似合うのかもしれないけど。昨日も見たけど、舞い上がってて気付けなかった」


感じたことを素直に口に出来るのも、こいつならではの特性。
しかし百%善意だけを込められた言葉を貰うのに、おれは慣れていない。少し、気恥ずかしい。
思わず、癖で皮肉に返してしまいそうになる。
今はあんたを楽に見下ろせるんだぜ。
まだ伸びてるけどな、身長。
紫苑はもう、成長は止まったのか?
でも、言えなかった。わざと悪意で返すなんて。紫苑の善意を皮肉で返すこと。
皮肉で返そうとするそれは、おれの心を隠す、無意識の防衛本能。今まで、誰に対しても使ってきた手段だ。
いくら相手と、付き合った年月が長かろうが。いくら相手が、おれに疑いようのない好意を寄せていようが。
皮肉や謙遜で身を固めてきたおれの、他人を信用しない手段。
実際、初めて会った時には紫苑にも皮肉を言った。あの時は、おれなりに戸惑っていたから。
言いようのない感覚、感じたことのない気持ちに。
だが今は。敵ではない、敵になりたくはない相手に壁を作ってどうする。
紫苑に焦がれてここまで来たんだ。あんたもいい加減、変わってみたらどうだ?


「そうか? ……そりゃあ、どうも」


笑顔で返したら、当然のことのように紫苑も無防備な笑顔を向けてきた。


「それにしてもネズミ、ネクタイ結ぶのうまいな。ぼく、最初は手こずって、しめるのに何分もかかったんだ。だからネクタイをしめる時間を見積もって、その分早起きして。でもせっかく結んだのも、なんだか不格好だったみたい。いつも、沙布に直されてた」


恥ずかしそうに笑う。今は、もう結ぶのもうまくなったようだ。きっちり第一ボタンまで留めたYシャツに、首元まで上げたネクタイは、綺麗に三角形。
しかし、毎朝沙布に結んでもらってただと? ……むかつく。
紫苑はなんとも思わなくても(申し訳ないくらいは思ったかもしれないが)、沙布は。
……沙布は。紫苑の妻よろしく、自分より背の高い紫苑を屈ませて、ネクタイを結んでやっていたことだろう。
なんて幸せに満ちた構図。なんて誤解を招く構図。なんて、腹の立つ構図だ。むかつく。
その状況を思い浮かべなんだかむかむかしているおれと、そんなことはまったく知らずにニコニコしている紫苑。
皮肉なことに、こんなところまで対照的。
……落ち着け。過去に嫉妬してどうする。過去に思いを馳せて届くものなら、おれだって紫苑の幼なじみの地位を得ている。
平静を装う。


「ああ。ネクタイ結ぶの、初めてじゃないし」


稽古や舞台上では、今まで幾度となくネクタイを結び、解いてきた。
もっともおれも、最初は一本の紐が形になる意味がわからなくて、支配人に当たり散らしたんだけどな。


「そうなんだ。前の学校も、ネクタイだったとか?」


悪意のない問い。おれは無意識に素っ気ない声を出してしまった。


「どーだったかな。学校ほとんど行かなかったから、忘れた」


高校に進学したのは、その方がのちのちこの学園に編入するのに都合がいいからで、おれの意思や強い希望があってのことではない。
別に、どこの高校だってよかった。在籍していた・進学できるという立場さえ手にできれば。
昨年まで在籍していた高校も、金さえ積めば進学・卒業が思いのままだったから。ろくに行かなくても、単位は金で買えたから。
その高校も、ルサルカの支配人が見つけ、手配してくれた。
だから本当におれは、この一年学校には馴染みのない生活を送っていた。
前の学校の制服を着たのはほんの数度。
その間にも舞台で数え切れないほどの衣装を纏ったから、着る回数の少ない制服などかけらも覚えていなかった。
おれの言葉をどう取ったのか、紫苑は途端に申し訳なさそうな顔をした。


「あっ、そうなんだ……。ご、ごめん」


なんだよ、なんでここで謝るわけ。おれが登校拒否したとでも思ったか?
まあいいか。ここに来るまでの経緯は、改めていつか。
……聞かれたら、教えることにする。


「過去の話はいいから。支度もできたし、行くか? 昼飯はどうする。途中で買うか?」


おれの声に目を覚ましたかのように、紫苑は顔を上げた。


「あ、今日は学食で食べないか? 学園内を案内したいし、学食がきみの口に合うか食べてもらいたい」


特に反対する気持ちもない。逆に、おれの為に何かをしたいと思ってくれる、紫苑の心が嬉しかった。
だからおれは、気持ち良くその誘いを受けた。





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