6学園テキスト

□3 地平線の彼方に居ても
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理事長に紹介された、待ち焦がれたぼくのルームメイト。
どんな運命の戯れなのか、それは四年間片時も忘れたことのない人で。ぼくが今まで生きてきた中で、一番美しいと感じる人だった。
初めて逢った時も。そして、今も。

理事長が、思い出したかのように部屋の明かりを付けた。暗かった室内が、ぱっと人工的な明かりに包まれる。
逆光だった理事長の顔も、はっきり見えるようになった。
隣に立つ、きみの姿も。
目の前にいるのは……ネズミ、きみなのか…?


「君もネズミ君には面識があるようだね。初対面だったらいささか不安だったんだが……これで、ルームメイトの同意書にサインしてもらえるね。そうしたら、晴れて君達はルームメイト同士。それで、構わないかね? ……きみ? 紫苑くん?」


きみの姿に見惚れてしまい、一瞬理事長の存在を忘れていた。
慌てて前に向き直るぼくをよそに、きみは涼しげな態度で言う。


「はい。彼と会うのは四年ぶりなので、紫苑くん少し驚いているようです。でも……忘れないで、覚えていてくれたんだろう?」


最後の言葉は、ぼくに当てた言葉。理事長とぼくの前では態度が違う。
理事長の前では、大人しく美しい編入生。でも、ぼくに対する問いかけは。
期待。懇願。そして強要。
きみの内心の不安なんて、塵程も感じられない。
そんな態度をとらなくたって、ぼくはきみを忘れたりなんかしない。信用していないのか? ……悔しい。


「当たり前だろう! 突然消えたきみを、ぼくがどれだけ――」


想ったと思う。
途中で言葉は途切れた。だって。きみが、満足げに笑ったから。
それにしても、ぼくは何を口走っているのだろう。同い年の、同性に対して。
……どうも、ネズミ相手だと調子が狂う。自分が自分でないみたいだ。
ぼくの言葉や態度にかけらの興味も示さないまま、理事長はネズミと話を進めていく。


「じゃあネズミ君は、今日から早速紫苑くんと同じ部屋で過ごしてもらうことになる。荷物は、これから運び込むのかな?」
「いえ。必要な物はこれから買い足していくことにしましたので。最低限のものだけ、自分で持ってきました」
「そうか。もし、何か必要な物や足りない物があったら、言いなさい。すぐに手配させよう」


……ん?


「はい。ありがとうございます」


ネズミの私物で足りないものを、理事長が手配するのか?まさかな。
学校での備品について言ってるんだろう。


「いいや、礼には及ばない。私は、君が我が校に編入してくれただけで幸せなのだから。何をどれだけ送ったとしても、きっと私は物足りないろうな」
「いえ、そんな……。突然の編入を受け入れて下さっただけ、心から感謝していますから」


ん? ん……? ぼ、ぼくの気のせい……? 理事長の顔付きが、いつもと違うような……。
……こんなにしまりのない顔で笑う人だったか?
ニタニタ笑顔のまま、理事長は更に続ける。
ぼくのことなど視界から消え失せているように(実際消え失せているんじゃないだろうか?)、一心にネズミだけを見つめて。


「奥床しい子だ。実に素晴らしい。そう、同意書の件だが。提出は、紫苑くんが概要をしっかりと把握してからの方がいいだろう。納得出来次第、事後提出で構わないよ」
「はい」


んん?
確かぼくが入寮した時の理事長は、期限には厳しくて提出を忘れた生徒にはそれなりの処罰を下したと、噂で聞いたような気がするけど。
な、なんだか、随分と寛大になられたんだな……。


「寮や校内の設備の説明・案内は、回りながらの方がいいだろう。では、早速」


そう言うなり、理事長は立ち上がった。……これから理事長直々に、校内の案内をするつもりなのだろうか。
妬むわけじゃないけど、ぼく達の時の理事長は「各自、時間のある時に見て回るように。
立場を弁え、挨拶を忘れないようにしたまえ」とか釘を刺すような一言を残して、さっさと消えたような気が……。
一人きりの編入生だから、丁寧に持て成しているんだろうか?
しかしなんだろう、この妙な違和感は……。


「理事長。理事長のお手を煩わせるわけにはいきません。寮や施設については、後ほど紫苑くんに説明してもらいますので、どうか、お構いなく」


やんわりと、しかし有無を言わさぬ雰囲気を醸し出して、ネズミは理事長の申し出を断った。


「そうか? 慎ましやかなことだが、少しは頼ることもしてほしいのだがな……」


理事長はなんだか寂しそうだ。し、正直、き、気持ち悪い。


「ええ、ありがとうございます。もちろん、しかるべき時にはそうさせて頂きます。お気遣い、本当に感謝しています、理事長」


ふわりと、ネズミが微笑んだ。
……きみは、一体いくつ笑顔を持ち合わせているんだ。
底意地の悪い笑み。嘲りや中傷を込めた笑み。艶やかな笑み。悪戯っ子のような笑み。
今理事長に向けている笑顔は、まるで雪解けを促す暖かい春の陽射しを思わせるような。
とても、柔らかい笑みだ。
例えるならば、慈悲深い聖母のようで、見る者すべてを優しく包み込んでしまう包容力を感じさせる。
横顔を見て、少なからず胸が跳ねた。
そのまばゆいような笑顔を真っ向から受けた理事長は……。
陽射しに溶かされて流れていきそうな程、表情を緩ませていた。よだれが垂れてきそうだ。
……失礼だけど、やっぱり気持ち悪い。


「――と、すっかり長居してしまいました。
理事長の貴重なお時間をこれ以上裂いて頂くわけにはいきませんね。そろそろおいとまさせて頂きます。紫苑、行こう」


ネズミは深々と理事長に頭を下げる。慌ててぼくもぺこりとお辞儀をした。
どうせ理事長は、ぼくのことなんて見ていないだろうけど。……別にひがんでいるわけじゃない。
聖母の微笑みに魅せられていた理事長は、踵を返したネズミの後姿を見てか、我に返った。
出て行こうとするネズミに声をかける。


「イ、イヴっ、じゃない、ネズミくん! 何かあったら、すぐに私を頼りなさい。校内のことであろうとそうでなかろうと、すぐ駆け付けて対処する」


出て行きかけたネズミはもう一度振り返る。そしてトドメと言わんばかりに笑みを浮かべ


「どうも、ありがとうございます」


と礼を述べた。
後に続くぼくも、慌てて理事長室を出、静かに戸を閉めた。
この扉の向こうでは、理事長がしまりのない顔でとろけているのだろう。
視覚的には見えなくても、なんとなくそんな気がした。
……この一件で、ぼくが理事長を見る目は変わった。






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