6学園テキスト

□1 灰色の空の下
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「ちょっとー。どこ見てんの」


不意に声をかけられて、意識が現実に引き戻される。
……うるさい。ただ空を仰ぎ見ていただけだろうが。
今思っていたことを無理矢理頭の片隅に追いやると、現状を把握するために二、三度瞬きした。


目の前にいるのは、一人の女。
狭い路地で、身体を密着させている。
背丈は大体同じくらい。
……男のおれと同じくらいの背丈だなんて。
この女がでかいんじゃない。
おれが、標準よりほんの少し小さいだけ。
……やめた。
これ以上考えてもおもしろくないだけだ。
自分のコンプレックスに心の中で舌打ちをする。
そして、濡れた唇で誘う女を見た。


「ねぇ、いつまでこんな汚いところに隠れてるつもり? いい加減あっち、入ろうよ」


女の指すあっち、とは、異色電気垂れ流しの裏通り。
もともとそちらの方に用があってここまで来たのだから、当然といえば当然なのだが。
……くだらない。
今は頭の悪い街にも頭の悪い女にも、少しも興味がわかないらしい。
今日は楽しむ余裕ができそうにない。


――でも、もったいないじゃねぇか。


頭の中で、野生的な本能が耳打ちする。


――興味がないなんて言ってないで、いっそ身体を委ねて、一度どこまでも堕ちてみたらどうだ?
――たかだか数時間、快楽の波に飲まれるだけだ。……幸せなことじゃねぇか。


だめだ。否、それは心が許さない。
頭の中で割りと本気で思案してみたが、やはり今日はそういう気分じゃない。
今まで、こんなことなかったはずだけど。
おかしいな。
……遊びすぎたか?
一瞬そんな考えが頭を過ぎる。
が、すぐに掻き消した。自嘲気味に笑う。
まさか。この歳で、なんて。早過ぎるだろ。


声をかけても動こうとしないおれを見兼ねて、女が無遠慮に手を延ばしてきた。
右手は頬に、左手は腰に。女の派手なネイルが、頬を突く。
微かな光ですら安っぽく輝くスワロフスキー。その輝きが、やけにカンに障った。


「なに、ここまできて怖くなったとか? ……ふふ。そんなわけないか。今更純情ぶる意味ないもんね」


女の左手が下腹の辺りでうごめく。


「ね、早く行こうよ。もう、待ち切れないから……」


吐息混じりに囁きながら、左手が更に下を撫でようとした、ところで。我慢できなくなったおれはその手を払った。


「悪い。今日、気乗りしないから帰るわ」


愛想だけで笑い、女から身体を一歩分引く。
しかし、女は引き下がらなかった。引いた一歩分詰め寄り、いじわるく笑う。


「そんなのうそ。気乗りしなくたって、すぐその気にさせてあげる。あたし、自分で言うのもなんだけど、すごくうまいよ。ここまで来たんだから、試そうよ」


艶めく唇が、やけに毒々しく写る。
一度気になってしまうと……だめだ。今夜は抱けそうにない。
楽しみを見出せないセックスなんて、ただの苦痛でしかない。


「ほんと、悪い。今日、無理だわ」
「どうして? さっきまでやる気だったんでしょ?」
「んー、まぁ、ね」
「何よ、突然」
「だからー」


頭の悪い女だな。
押してばかりじゃなくたまに引き下がって見せるのも、駆け引きのうちだぜ。


「……あんた。あたしが誰だかわかってんの?」


煮え切らないおれの態度に焦れたのか、急に脅しが入った。女の目元から笑顔が消える。
知ってるよ。同性に嫌われる、嫌味なくらい官能的で美人のヤリマン。
ある筋では名を知らぬ者はいない、極上の女だ。
それを抱けるのはごく一部の男だけで、選ばれた者は自分に誇りを感じるという。
……今思うと、薄っぺらいな。女たった一人じゃないか。


「あんたと繋がるために、どれだけの男と寝たと思ってんのよ!」


そんなこと知りません。特に興味もありません。


「このまま女に恥じかかせるような真似、あんたはしないわよね? なんなら、お金払おうか。こづかい稼ぎにやりなさいよ」


なんだこいつ。こんなに腹が立つ女も珍しい。
おれを金で買おうって?……冗談じゃない。


「あのさぁ」


女の肩に腕を回し、抱きしめるように引き寄せる。
だが、そんな甘いことをしてやるつもりはなかった。
金に近い長い髪を一房掴むと、手に絡み付けて引っ張った。


「あんた、しつこい。……魅力感じないって言ってるの、わかんないわけ? オバサン」


意識した笑顔でいい放った直後、左頬に衝撃を感じる。
女に、平手で叩かれた。


「っ! ざけんな、このガキ!」


続けて右膝にも衝撃。更に地面に転がしていた鞄を拾い上げ、思い切り叩きつけられた。
結構、攻撃的な女だな。
そう思っている間に、止める間もなく――止める気もない――女は大通りに向かって駆けていった。


……衝動的に、やっちまった。
これで明日から、また名前だけが独り歩きすることになる。
まぁ、いいか。
特に不便はない。言いたい奴には勝手に言わせておけばいい。今までだって、そうしてきた。
噂には尾ひれがつくものだから、いくら否定したところでどうなるわけでもない。
そう悟ったのが人よりも早かったから、常に噂には鈍感なふりをした。
今回も、放っておけばそのうちほとぼりも冷める。
女は言いように話をでっち上げるだろうが、それにとやかく言うような男ではありたくない。
かっこつけてるわけじゃなくて、単純に面倒だから。
この薄闇立ち込めた世界、人も自分もどうなろうと構わない。
自分自信のことを、どうにも客観的に感じることしかできなくなっていた。


――と、何やら大通りが騒がしいことに気付いた。
ざわめき。叫び。どよめき。
……なんだ?


「――っちです!」


怒りで狂気じみた女の怒声、複数の人間の足音、やじうまのざわめき……それらがだんだん近づいてくる。


「ここ! ここで男に無理矢理連れ込まれて、やられそうになったの!」


げ。あの女、ちくりやがった。
しかも、事実と明らかに違うだろう。やられそうになったのは寧ろおれだ!


「あ、あいつ! あそこ! あの、学ランの!」


闇に紛れていたおれの姿を目ざとく見つけ出した女と警官は、こっちに向かって駆け出した。


「おいそこの少年! 待て!」


待てと言われて止まってられるかよ!
おれはきびすを返して、裏通りに向けて走り出した。その後ろを追いかけてくる警官と女。
なにやら喚き立てている女の声が耳障りだ。何から何まで不快な女め。
細道を抜けきる間際、横に積み上げられたダンボールを蹴りつけてなぎ倒した。多少だけれど、足止めにはなるだろう。
多少で充分。少しの時間でも逃げ切れる。
ごきげんよう、イカれた女と鵜呑みの警官。






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