6学園テキスト

□7 ぽかり浮かんで締めるもの
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「しまった……」


ぼくがそれに気がついたのは、専門学の教室に向かう直前だった。
頭の中から綺麗に抜け去っていたことだから、直面してみて初めて血の気が引いてゆく。
小声で洩らしたぼやきを逃さず聞きつけて、ネズミが後ろの席から身体を伸ばしてきた。


「どうした?」
「すっかり忘れてた」
「なにを」
「どうしよう」
「なにが」
「今までこんなこと、しでかしたことないのに」
「だからどうしたって」


自問自答するぼくに律義に反応を返しながら、ネズミは更に首を伸ばして顔を覗き込んでくる。
ぼくのそう広くもない肩に器用に顎を乗せて、無視されているのが面白くないように歯をかちかち鳴らしながら。


「おれがどうしたんだって聞いてるだろうが。ちゃんとお返事しなさい」
「あなたにはお話したくないことなのではなくて? 図々しく人の心に、泥だらけの足で踏み込もうとする傲慢ネズミさん」


子供に話しかけるように柔らかい声音なのに、ぐさぐさと刺すような言葉。
ネズミに返事をする前に、滑り込むようななめらかさでどこからともなく沙布が口を挟んだ。


「沙布、聞いてたのか」
「ええ。紫苑の困った声に、私が反応しないわけないでしょう」
「地獄耳」
「うるさいわよドブネズミ」


ぽそりと洩らしたネズミの軽口をたしなめて、沙布はぼくの机の前に回り込んできた。両手を机について、尋問するように真正面から見据えてくる。


「なにか困りごと? 私で役に立てること、ないかしら」
「はいはい、余計なお世話しなくて結構ですよ。紫苑くんのことは、全部このネズミさまにお任せあれ。残念ながら出番はないですよ沙布王」
「あんたに聞いてないわよ。……紫苑、遠慮しないで頼って? 私と紫苑の仲じゃない。私にできることならなんでも。力を貸すわ」


優しく微笑みを浮かべる聖母のような沙布に、ぼくはゆっくりと首を振る。


「ごめん、沙布。今回は、沙布の手を借りられそうにない」
「そ、そんな……!」


りりしい眉を悲しげにひそめて、沙布は絶句した。


「ほら見なさい、だから言わんこっちゃない。最初から余計な口を挟まなければ、傷つくこともなかったんですよ。なぁ紫苑。あんたが頼るのはおれだけだろう」


自信満々に微笑みながら、ネズミが後ろから羽交い絞めにするようにぼくの首に腕を絡める。
そのまま輪を狭めていけば抱きすくめられてしまう構図にも、今は慌てる余裕すらない。忘れてしまった現実が、ぼくの心を締め付けていて。
ネズミの満足げな吐息を聞きながら、ぼくはもう一度首を振った。


「だめだ、ネズミ。きみを頼るわけにもいかないんだ」
「な、なに言い出すんだ紫苑。おれを頼らずして誰を頼る」
「ほら見なさい、だから言わんこっちゃない。最初から私たちの間に立ちはばかりさえしなければ、みじめな気持にならずに済んだのに」
「ちょっと。おれのセリフ真似しないでくれる。目立ちたがりはみっともないぜ」
「お言葉ね、紫苑を支えられもしない無力なドブネズミさん」
「その言葉、そっくりそのまま返そうか、ねこかぶり。あんただって頼られていないことには変わりないだろう。一人で優位に立ったような目で見るな」
「大人しく項垂れてでもいれば少しは可愛げのあるものを」
「残念、おれって項垂れなくてももう充分に可愛いから」
「紫苑、私でも役に立てないことって、なにがあったの」
「ちょっと無視しないでくれる」


いつものように賑やかに言葉をぶつけ合う二人の顔を交互に見て、ぼくは俯いて言った。


「課題、やってくるの忘れた」


二人は一瞬間をおいてぱちぱちとまばたきをした後、ほっと安堵の息をついた。


「なんだ、そんなこと?」
「私てっきり、もっと重大な話なのかと」


そんな小さなことを、とでも言いたそうに顔をほころばせる二人に違和感を覚える。ぼくのしでかしたことは、既に重大過ぎる程の重罪じゃないだろうか。


「小さくないよ。毎日出される専門教科の課題を忘れたんだぞ? 提出期限は、その翌日、つまり今日なのに。なんでそんなに楽観的にいられるんだよ」
「だって、たかが課題でしょ。ほら、出してみなって。手伝ってやるから」
「紫苑、生態学の選択よね。じゃあそれ取ってる生徒会役員を招集するわ。大丈夫、一日分の課題なんてあくびしてる間に片付くわよ」


こともなげに言ってのける二人に、違和感は更に膨らんでいく。


「ちょっと待って、だめだそんなの。ぼくに課されたものなんだ、ぼくがやらなきゃ意味がない」
「あんた、頭固いな。そりゃ教師からしてみればそうだろう。でも、そんなのいちいち守ってたら身が持たない。学生でいるうちくらいは、適度に手を抜いて楽しんでいいんだぜ」
「手を抜くところは学業じゃないだろう。ぼくたちの本分は勉強することにあるんだ」
「でも紫苑、出された課題は昨日の復習と今日の予習でしょう? だったら大丈夫、授業についていけないことないわよ」
「沙布までそんなこと。だとしても、一回分課題を忘れた事実には変わりないよ。その分、評価が下がっちゃう」
「だから、そうならないように手伝ってやるって言ってんの」
「それじゃ意味ないんだって。ああ、こうしているうちに少しでもやっておかないと」


二人の申し出はありがたいし、とても助かる。できることなら分散して消化してしまいたい。けれど、他人がこなした課題を提出しても、なんの意味もないと思う。


「筆跡くらい真似て書いてやるから。ほらよこせ」
「い、いいよ。だめだって」
「私だってそれくらい簡単にできるわ。あんたばかりでしゃばらないでよね」
「おお怖。沙布王の独裁政権が始まりそうだ」
「なによそれ、馬鹿にしてんの」


手に手にぼくの生態学の課題を持って、口論しながらも設問に目を通し始める二人。
確かに二人の手にかかればたかだか数ページの課題なんて一瞬だろう。
集中し始めた二人の手から課題をもぎ取ることもなんとなくできなくて、しぶしぶその流れのまま三人で分担して課題をこなし始めた。その時。





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