お題テキスト

□逢瀬
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『逢瀬』



ネズミが帰ってきてくれること。ぼくのところに帰ってきてくれること。それは北ブロックできみを見送ってからずっと、ぼくの胸に灯り続けている一番の願い。
一年待てど二年待てど、気ままなきみはその願いを叶えてはくれなかった。
そして巡った三年。字にしてしまうとそう長く感じないけれど、実際に暮らしてみるとそれは永遠に終わらないんじゃないかというくらいに長い時間だった。
その間、ぼくを取り囲む世界は毎日目まぐるしく変化した。
再生委員のメンバーが変わり、肩書が変わり、立ち並ぶ建物は増え、季節が移ろった。
日々増える知り合いの波に揉まれて、頭の片隅で思う夜もあった。

『もう、待つことなどやめてしまえ。待たされる身は辛い。諦めることで始まる新しい世界で生きるのも、いいじゃないか』

優しい手招き、甘い言葉。飲まれてしまえたらどれ程楽になれるのだろう。
けれど、それを浮かべたのが自分なら、否定したのも自分だった。

一年だめで、二年だめで、でも三年目は分からないじゃないか。
何年経とうとここで待ち続けると誓ったんだ、たった数年で音を上げてどうする。弱気になるな、笑われるぞ。

頭の中いっぱいに、ぼくを笑った軽やかな声を必死に思い描く。
「これだから、純粋培養のエリートは」
ぼくはもう、そう言われた頃のぼくじゃない。きみと共に、滅菌され尽くした床を蹴り、不可能と思われていたことを可能にした人間だ。
そうだ、ぼくたちはあんなにも近くにいた。今だって、心は繋がっているさ。
そう思いながら溢れる涙を毛布に染み込ませ、いくつもの夜を乗り越えた。

きみが消えた途端に脆くなった自分を叱咤しながら、生活してきて三年目。
今夜、待ち焦がれた想い人が、会いたくてたまらなかったきみが、ようやく帰ってきた。
これはもう、喜ぶ以外にどうやって感情を表わしたらいいか分からない。稚拙な言葉をぶつける時間すら惜しく、ぼくはネズミに飛びついていた。


「再会の抱擁? 初っ端から熱烈に歓迎してくれるじゃないか。出迎え、感謝する」


腕の中に確かにある熱が発した音は、耳にすっと馴染むネズミのもの。
こんな風に再会する夢を何度みただろう。でも今日のは夢じゃない。抱え込んだぬくもりが、それを教えてくれる。


「ん、紫苑、苦しい。さすがに強烈すぎだ、ちょっと離れてくれる。……聞こえないのか? 西ブロックで養った聴力がまた衰えたかよ、再生委員のエリート様」


この、人を小馬鹿にする物言いも懐かしい。それすらもネズミを感じて嬉しくなる。


「おい重いって。こら、せっかく帰ってきたのに無視はないじゃないか? 擦り寄るな、この……、甘えん坊」


耳元に流れる言葉は相変わらずぼくを揶揄するものだけれど、最後の一語に甘みが含まれたのを過敏に感じた。
ぼくを誰だと思ってる。きみと一冬過ごした男だぞ。きみの声の変化なんて手に取るように分かる。
甘えん坊とからかいながら、自分こそ寂しがり屋の猫のようにぼくの髪に頬を擦りつけてくる。
匂いを嗅ぐように髪の中ですうっと息を吸われ、背中にゆっくりと腕が回る。ひしと抱かれるかと思ったら、ぽんと一つ背中に振動を感じた。
ぽん、ぽん、ぽん。ぎゅうぎゅうにしがみつくぼくをなだめるかのように、優しく背を叩かれる。
泣きじゃくる子供を再び眠りへといざなう、穏やかな調子で。


「紫苑、泣くなよ。恋人と離れ離れにさせられた悲劇の姫か、あんたは」
「泣いてない」
「泣いてるよ。じゃあこれはなんだ、汗か? よだれか?」


次第に叩く間隔を広げ、最後は背中についた手をそのまま滑らせ、ネズミはようやくぼくを抱きしめた。
身体一つで各地を回ったのだろう、慣れたネズミの匂いに、知らない芳しさが混ざっている。


「泣くな。ほら、泣きやめって」


言いながら回された腕に力がこもり、きつく抱擁される。
そんなことされたら余計に泣いてしまうのを分かってやっているんだろうか。きみのことだ、ぼくの感情なんかきっと全部お見通しなんだろう。
そう思ったら悔しくて、どうにか涙が止まるように力んでみる。
ネズミの肩に乗せていた額を少しだけ浮かせ、鼻をすすりながら巻き付けた腕を少しだけ緩める。


「肩がびしょぬれだ。鼻水までつけたんじゃないだろうな」
「つけてない、と、思う……多分」
「あーあ、とんでもない出迎えの挨拶だな。帰宅早々、服が汚れた」


ぼくの後ろ髪を鷲掴み顔を引き離し、ネズミは自分の肩を確認する。その後手を緩め側頭に滑らせ、耳たぶを摘まみ、頬に添わせた。
冷たい手だ。涙に火照った肌に心地いい、慣れた陶器の感触。
改めて間近で見る横顔は、あの日北ブロックで見たよりも端整なものになっていることに気がついた。
些細な違いだろうとぼくには分かる。きっと本人よりも詳しく、きみの成長を指摘できる。
三年前よりも尖った輪郭、鋭くなった目つき。褐色になる程ではないけれど色がついた肌。
瞳に宿る力強い灰色も健在だ。けれどそれは、初めて会った夜や再会した頃のようにきつく細められてはいない。
あの頃と違い不用意に狙われることがなくなった分、穏やかになったのだろうか。
それともここに戻ってきたからか。
十二歳の頃から変わらない。空白の三年を呆気なく埋めてしまう程、ぼくはきみに三度魅せられた。


「涙でぐしゃぐしゃな顔して、なにが泣いてないだ。あんた、相も変わらず嘘が下手だな」
「きみも、相変わらず、人を……人を」
「貶めるのがうまいって? 紫苑、あんた語彙まで乏しくなったんじゃないか? せっかく上達した言葉遣い、昔に戻すなよ」


優しい視線に包まれているうちに、昂っていた心が静まってきた。
しゃくりあげていた喉もおさまり、呼吸が正常に近づく。


「ネズミ、痩せたんじゃないか?」
「そう? あいにく体重計なんてハイテクなものとは無縁の生活を送っていたもんで、分からないな。あんたは太った。幸せ太りだ」
「太ったかな」
「ああ。随分と動きが鈍そうだ。一緒に矯正施設を駆けた相棒とは思えない」


きみと再会したら何を話そう。何を報告して何を伺おう。ちゃんと話せるだろうか。
そんなことを心配した日もあったけれど、いざこうして顔を合わせてみるとなんてことなく、ぼくたちは三年前に戻っていく。


「本当に痩せたって。引き締まったっていうのか? 胸板は固いし、腰なんかこんなに細い。三年前から痩せてたのに、あれ以上どこが減ったんだろう」
「悪かったな柔らかな女の胸じゃなくて。ちょ、くすぐったい。どこ触ってる」


巻きつける力は緩めたものの抱きつく姿勢は変えぬまま、片手をもぞもぞと動かして久方ぶりの感触を味わう。


「女の子になってきてほしいなんて望んでないよ。こうして生きて、ぼくのところに帰ってきてくれた。それで充分だ」


もう離れないで、これからはずっとぼくの隣にいてくれ。
そう続けようとしたけれど、先に聞こえたせせら笑いによって言葉はかき消されてしまった。


「帰ってきた、だって。考えもひ弱なままだな。言ったろ、おれは一ヵ所に留まることはできない。根なし草生活の方が性に合ってるって。またいつここを出ていくか知れない身だ、あまり期待をかけてくれるな」


ネズミはあっさりと抱擁の手を解き、芝居がかった動作で肩をすくめた。ぼくをばかにする時にいつも取るポーズだ。
初めて見た時はその緩慢な態度にむっとしたけれど、ネズミの胸の内を多少なりとも知った今は、別段怒りは芽生えない。
けれど、その中身に心臓が大きく跳ねた。
またいつ出ていくか知れない身、だって? どうしてそんなことを言うんだ。ぼくが恋しくなったから、帰ってきてくれたんじゃないのか。
それまでふわふわと幸せの綿に包まれていた身体が、思い切り手綱を引かれたように現実に引き戻される。
きみは、いつ出ていく? 一ヶ月先か、一週間後か、はたまた三日後か、明日か。いつ、またぼくから離れていく?


「――いやだ!」
「うわっびっくりした、耳元でいきなり大声出すなよ」
「いやだ、だめだからなネズミ、離さない、逃がさない。せっかく会えたのに、また別れるなんて。きみは、ぼくと別れる為に帰ってきたのか」
「おいおい今帰ってきたばかりなのにもう別れの心配? ちょっとせっかりすぎるんじゃないか」
「せっかちにもなる! だってきみが、そんな調子だから。ぼくはこんなにも会いたかったのに、きみは」


ぼくは毎晩きみの身を案じていた。
どこにいるのか、腹をすかせていないか、怪我や病気をしていないか、どこか一カ所に身を寄せているんじゃないか。
知りようがないのだということが、余計に不安を煽る。
ぼくは結局NO.6の跡地のようなところにいるのに、きみは自由に飛び回り、いつしかぼくのことを忘れてしまい、ぼくの他に身を寄せたい人物に巡り合ったりするかもしれない。
そう思う度、身体を駆け巡る嫉妬の風を抑え込み、必死に声を殺したのに。
きみの心は、一体どこにある。


「ぼくは、きみを待っていた。本当だ。本当に、会いたかった。ずっと、待っていたのに。なのにすぐに離れていくようなこと言うな。ぼくを甘く見るな。ぼくを、軽んじるな」
「……懐かしい響きだ、軽んじる、か。おれが教えてやった言葉を、こうして向けられるなんてな」
「はぐらかさないでくれ、頼むから。……もう二度と離れたくない。一生、離れてやらない」
「なにそれ。熱烈な愛の告白?」
「懇願だ」


また噴き出しそうになる涙をぐっと堪える。
泣いちゃいけない。涙と一緒に言葉を流してはいけない。今は、堪える時だ。


「痛い痛い、そんなに力いっぱい手首を掴んでくれるな折れちまう。ったく、あんたは、しょうがないな」


呆れたような息で言いながら、ネズミはくっと鼻先を近づけてきた。
瞳の奥を覗き込まれるようで顎を引いたけれど、その小さな距離も埋めて耳元に唇を当てられた。
耳朶に感じる柔らかい感触に、背中が大袈裟にぞわりと粟立つ。


「このおれが戻るところなんて一つきり。あんたのいるところだけだぜ、紫苑」


直接言葉をねじ込まれながら軟骨を舐め上げられ、背筋がびっと伸びた。
その感触に、低く艶のある声に、発した内容に、一瞬で心奪われる。涙腺が緩み、視界が滲む。


「また泣く。どうした? あんたそんなに泣き虫じゃなかったろう」
「き、きみが、泣き虫にしたんだ。きみのいない夜が悔しくて、あの住み処が恋しくて、泣き癖がついた」


止め処なく溢れてくる涙が、指先で優しく拭われる。


「……っふ」
「わ、笑うなよ」
「悪い、別に嘲笑のつもりじゃない。ただ、あんまりにも素直に泣くから。おれがいない夜がそんなに恐ろしかったか、かわいそうに、よしよし。お詫びにキスしてやろうか」





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