お題テキスト

□夢の果て
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『夢の果て』



この場所は、物心がついた頃から変わらない。
晴れた日には木が焦げるようなつんとする匂い、雨の日には緩んだ大地が発する香ばしい匂いに包まれる。
犬が駆け回る庭も、立てつけの悪いドアも、変わることなくそこにある。
けれど朽ちた廃墟の隙間から染み出る雨水は、修復した今は随分ましになった。
歴史が変わったあの日から、底辺に位置していたおれたちの生活水準てやつは、少しずつだが上がってきている。
それもこれも、なんちゃら委員の紫苑様が手を回してくださっているから。
まったくこんな下々の生活まで気にかけてくれやがって、有難くて涙が出らぁ。
……なんてふざけてみても、この場所にもうあいつはいない。ネズミもいない。
犬とは違い、ご主人のいない人間様を一ヵ所に留めることなどできないと知ってはいるが、たまにそれを素直に寂しいと思ったりする。


三年前、二人の英雄と二人の脇役によってこの街は大きく形を変えた。いや、一人の名脇役と一人の三枚目のおやじに、か。
あの頃ここにどっかり腰を据えて動く気配も見せなかった絶対王制は、たった一つのほころびから呆気なく崩れ去っていった。
自然は移ろい繰り返すだけだけれど、人間は移ろいもすれば進化も退化もするのだと、廃墟になった残骸を見て改めて知った。
その証拠に、おれの犬と寄り添い眠っていたお客人たちは、今はもうホテルのどこにもいない。
生活環境が変わって、家のない奴を支援する取り組みなんてもんが始まったからだ。
それのおかげで死への距離がぐんと遠のいた奴らは、なけなしの金をはたいてここを出ていった。
新しい場所でのうのうと生活しているのか、はたまた死に見初められたか知らないけれど、きっとそこここで根強く生きているんだろう。
あの人狩りを免れ、聖都市の崩壊を目の当たりにした奴らだ。何があっても、生にしがみ付いているに違いない。


そこにあったものが終わってしまっても、なにがあったか忘れちゃいない。けれどわざわざ口にすることでもない。
時が来たらシオンに教えてやるつもりで頭に描ける限りの出来事を思い返してはいるが、今のこの生活にまみれているとまるであの頃が悪い夢だったかのように感じられる。
確かにそこにあったもの。理不尽な理由で命を落とした大勢の人間がいたこと。覚えてはいるんだけどな。
日に日に靄に巻かれ連れ去られるようにして、一つまた一つと記憶が消え去っているのは事実だ。
忘れてはいけないのに忘れてしまう。それが犬より愚かな人間の、からからの脳みその仕組みなのかもしれない。


この冬でシオンは三つになった。
確かな年なんか知らないからおおよそだが、親代わりであるおれも本当の誕生日や年なんかない。それに関して不便を感じたこともなかった。
自分は生きていて、こいつも生きている。それだけが、変わらない現実だから。
ただこいつの実の母親がどうなったのか、弱い邪気に覆われた重苦しい夜に、考えることがある。
後に紫苑に聞いたけれど、少なくとも人狩りの前に放たれた衝撃波にはやられちゃいなかったそうだ。でも、その後のことは分からないと言った。
何百人と連れられてたった二人しか戻ってこなかったんだ、死んでしまった可能性の方が高いだろう。
でももしかしたら生きていて、今でも子供を探しているかもしれない。いつかこの場所を嗅ぎつけて、我が子を受け取りに来るかもしれない。
無論それは構わない。元から預かりものだ、預かりものは返すのが自然の理。
いつ現れたっていいように、常につかず離れず切り取ることができる位置にシオンを置いていた。つもり、だけれど。
弱った夜は怖くなる。実の子供じゃなくても、今では完全に情がわいちまってる。思ってる以上に手放すことは難しいんだろう。
そんな風に重苦しい思いに捕まったおれを助けてくれるのは、いつもシオンの安らかな寝息だった。
良くも悪くも、おれはこのチビに立派に依存しちまってる。
だから、人間は面倒なんだ。一度心を奪われたら、取り返すことなど叶わないんだから。




「まま、まま! バームがまたけんかした!」


久方ぶりの晴天の恵みを享受するべく、溜まりに溜まった洗濯物をやっとこ広げ終わった頃、シオンが大声を上げながら駆けてきた。
短い手の中に薄茶の塊を抱えている。おれの元に着く前に、暴れるそれは手の中から滑り落ちた。


「またおまえか、相手は誰だ?」
「クロ!」


おれの睨みに気付いて後ずさる薄茶の塊の正体は子犬。シオンはそいつと兄弟の、白黒ぶちの子犬を指した。
シオンは、紫苑に違わずおかしな力を持っていた。市民の通報で保護した獰猛な犬もすぐに手懐てしまい、おかしな名前までつけた。
子犬の名前をつけたのもシオンの仕業だ。大好きな火藍の店の、バームクーヘンとクロワッサンから取った名前。
ネズミの小ネズミに焼き菓子の名前をつけた紫苑とまるで同じ思考だ。
こいつは本当に紫苑のこしらえた子供なんじゃないかと疑いたくなる。
名前が同じということに喜び紫苑にべたべた懐いて、あいつに預ける度にその思考までもをインプットして帰ってきやがって。
本当に、可愛い奴。


「どっちが喧嘩ふっかけたか見てたか?」
「うん。バームがね、おっぱい飲んでたクロにとびかかった!」
「そうか。おいバーム逃げんな、今日という今日はしっかり灸を据えてやる。がっつかなくても乳はなくなったりしねぇから大丈夫だって言ってるだろ」


怯えて逃げ出そうとするバームをシオンが抱き上げまた駆けてくる。
おれの言葉に怯える子犬は、その腕の中でさっきよりも強く抵抗した。手足をばたつかせ暴れ、シオンの胸を蹴って飛び出し庭の隅まで逃げる。
その反動で頭でっかちなシオンは傾き、ぽてりとこけた。


「シオン」


洗濯かごを地面に置き、驚いた顔のまま地面に転がるシオンの元に向かう。
過保護なママみたく、過剰に心配して駆け寄ったりはしない。


「シオン泣くな。一人で立てるだろ、もう三つなんだから」


犬と人間の三年はまったく別次元だと分かっていながら、助け起こす気がないことを示す。
紫苑が統治する世界はあの頃のように歪んだものにならないと信じているものの、それと志を低くするのでは別問題だ。厳しくしつけておいて損はないと思う。
もっとも子育ての仕方なんて知らないから、おふくろがおれにしてくれたように振舞っているだけだけれど。
転がったままのシオンはおれの声をちゃんと聞き、少しも表情を崩さずすっくと立ち上がった。
ぬかるみの隅に突っ込んだらしく、手と鼻の頭が泥で汚れている。


「なかないよ。いたいけど、がまんできるくらいだから」


小さな両手を叩き合わせ、シオンはそう言ってにっと笑った。
ったく、なんていう強さだ。自分で育てておいてなんだが、こいつはおれが思っている以上に強い。


「来い。はらってやる」


しゃがみ込んで両手を広げると、シオンは嬉しそうに駆けてきた。
抱きとめて泥をはらうより先に、首にしがみ付かれる。


「おい、おれまで汚れるだろうが、離れろ」


引き離そうと腰を掴んでやっても、きゃらきゃら笑うだけで離れようとしない。
最近切っていなかった髪から、ひなたの匂いが漂ってくる。


「あーあ、こりゃもういっぺん洗濯だな。天気がいいうちに洗っちまうか。シオン、おまえさんも一緒に洗剤でぶくぶくにしてやろうか」
「いやー」


耳元で甲高く発せられる笑い声に自然と頬がほころぶ。
ああ、つくづく平和になったもんだ。


「まま、大好き」


おれの髪に擦り寄りくぐもった音になったその言葉に、胸の奥がきゅうっと掴まれる。
犬と同じだ。純真無垢な、一点の穢れもない本音。


「ったく、おまえはいつまでたっても甘えただな」


心地いい重みと体温を、持ち上げた手の中に閉じ込める。自分の肩を抱くような格好で腕が狭まる。


「まま、大好き」
「ああ。おれも、おまえが大好きだぞ」


他意のない言葉を同じように返す。こちらも一点の偽りもない、愛の言葉を。


「大好きだぞ、しおん」


おれに世界を見せてくれ、その中で疑いようもない親愛をくれるおまえさんたちが、大好きだぞ。


「まま、今シオンじゃなくて紫苑に言ったでしょー」
「ああ? 言ってねぇよ。おまえにしか言ってねぇ」
「言った、言ったよ。今、紫苑をよんだ」
「呼んでねーって。同じしおんだろうが、違いなんてあるか」


子供っていうのは、些細な違いも嗅ぎ分けちまうんだろうか。悟られるとは思わなかったことに心の中だけで驚きながら、力を入れてシオンを抱き上げる。


「ほら、風呂に入れてやる。ついでだ、バームとクロも一緒に来い」


空に放り投げるみたいに大声で言って、おれはたらいの方へと足を向けた。
ここに水を張って、チビ共を洗ってやるんだ。昔どっかの天然ぼうやに、川を汚すなと口うるさく言われたから。
その理由が今になって、ようやく分かったような気がした。


シオンも紫苑も、大好きだ、ばかやろう。
一生、死ぬまで、大好きだ。





――


夢の果て

はかないことの終わり


――





11.08.17*

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