お題テキスト

□前世
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『前世』


ハムレットは暗記するくらい自分でも読み込んでいたし、主演も何度もこなしていた。
誰かさんがおれの可愛い小ネズミに若年王の名をつけたせいで嫌でも馴染み深くなっちまった作品を、今回奇しくも演じることになった。


復讐に燻る炎の化身となってしまったデンマーク王子ハムレットの傍で、彼をひたむきに慰めたがった可憐で美しく愚かなオフィーリア。
与えられた役は、そんな悲劇のヒロインだった。
演じるのは初めてだが、読み込んでいたおかげでたいして台本なんか見なくてもそらで台詞を言える。
肝心のハムレット役の男は、最近名前が売れ始めた新米役者。
儲けることに人一倍の執着心を見せる支配人のことだ、おれを隣に並ばせてそいつの売名を図ろうって寸法だ。そんな愚かな算段、聞かなくても分かる。
おれの他に名が売れ始めた役者が自分の劇団から出るのが嬉しいのだろう、支配人は演目を決めてから今日まで至極ご機嫌だった。

禿散らかした頭は、それがもたらす経済効果にしか回らなかったらしい。
おれと並ぶことで、新米がどれだけプレッシャーを感じているのかなんて少しも分からないのだろう。
元はおれのファンだと語った新米は、隣に並んだ恋人に王子の威厳も忘れて釘付けになってから、我に返ったように怯え出した。
せっかくの大役が、おれと一緒なんてかわいそうにな。
悪いが、おれはおまえがとちってもフォローなんてしてやらない。
せいぜい自分の器の未熟さを思い知って、勝ち上がろうともがくなり落差を感じて打ちひしがれたりすればいいさ。
それを奮い立たせて人材教育するのはおれの仕事じゃないからどうだってよかった。
そんなことはつゆ知らずにチケット完売にうつつを抜かしている支配人。
「人の心が汲み取れないあんたは役者にならなくて正解だ」と軽蔑の視線を向けて、おれは用意された衣装をまとった。









「生か死か、それが問題だ!」


女を演じるのは嫌いじゃない。むしろ楽しんでいるくらいだ。


「オフィーリア、おまえは誠実な――」


西ブロックには片手でも余る数の役者しかいない。その中で女はゼロ。以前はいたと記憶しているが、気がついたらいなくなっていた。


「なぜそのようなことを……」


顔を合わせても敵意しか向けてこなかった女だ、姿を見なくなっても特に行方を探ったりはしなかった。
大方、ファンでありけだものでもある輩に捕まってしまったのだろう。
例え名の知れた舞台役者だとしても、ここでは屈強なボディガードがつくことはない。自分の身は自分で守れ。ここはそういうところだ。


「おまえのことを愛していた」
「ハムレット様、わたくしは、今でも心から」
「茶番だ! 愛しているなど大嘘だ。尼寺へ行け!」


最愛の男から罵られうなだれる美しいオフィーリアを見て、客席のあちこちから感嘆の息が漏れる。
おれが一歩踏み出す度、何か発する度、衣装をはためかせる度、魅せられてしまったけだものが情欲の息を吐く。
それすらも、ここにいる時分は嫌いじゃない。
そうだ、おれに魅入れ。心を移せ。一挙一動を固唾を飲んで見守るんだ。それが娯楽のないこの観客に許される、数少ない生きる糧。


「おお、神様。どうかあのお方を元通り、気高く、お強く、お優しかった、あの頃のハムレット様に」


立ち上がり、闇に落ちた客席を見やる。
見知った顔、見知らぬ顔が点々と見える。愛するハムレットから目を離したとしても、せりふが飛んでしまうことはない。
本当に、この生き方はおれの天職なのかもしれないな。小さな劇場で、善し悪しの違いも分からない群衆に演劇の片鱗を見せることは。


「そして、わたしは、オフィーリアは」


セットにしなだれかかりながら、いつも浮かぶ皮肉な思いに包まれようとした時、スポットライトも浴びていない客席の一点が目に留まった。
二階のど真ん中に、見慣れた白色。一瞬オフィーリアもイヴの仮面すらも剥がれ落ち、その場所を凝視する。
そこにいる男をおれが見間違えるはずはない。
紫苑、見に来たのか。
来るなと言ったのに、自分でも過剰すぎるくらいに怒って見せたのに、それでもおまえはこうしてのこのこ現れた。舞台に立つ、おれ見たさに。
無知で傲慢なNO.6のお坊ちゃんに、ここは相応しくないと言ってやっただろう。あんたはまだ、ここの闇の欠片しか見ていない。
危ないと忠告した人の優しさを無視してここまでやってきたあんたに、侮蔑と賞賛と憐れみを。
それと、一つまみの愛おしさでもくれてやろう。
思わず笑みが漏れた。なんだかよく分からない笑いだ。
これを慈悲と呼んでいいのか歓迎と言ってしまっていいのか分からないけれど、ただ一つ胸に想うこと。
ああ、まったくあんたは、本当に。
色んな意味で気高く、お強く、お優しくいらっしゃるんだな。


「そしてわたしは、オフィーリアは、女の中でも一番――」


復讐に燃える化身となったハムレットと、それを甲斐甲斐しく慰め続けた可憐で美しく愚かなオフィーリア。
今のおれが演じるに相応しいのは、美しい娘ではなく復讐の化身のはずだ。
なんの因果かこの配役を呪いながら、おれは風の歌を聞いた。







―――


前世〔ぜんせ〕

この世に生まれてくる前の世。


―――





11.08.06*

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