パラレルメルヘン

□いたずら王子と子犬と教師<後>
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クリーム色の羊がもそもそと草を食む、和やかな風景。
そこにはいつも、緑色の風が吹いていました。
家畜の食料である牧草を優しく撫でるそよ風。汗ばんだ身体を心地良く吹き抜けてゆくいたずら風。ときに嵐を引きつれて吹き荒ぶ突風。
城壁を遠く彼方に望む広大な牧場は、いつも新鮮な空気を蓄えていました。


穏やかにゆっくりと移動していく羊たちを、紫苑はぼんやりと見つめていました。
両手を組んで杖の頭に置き、その上に顎を乗せて、なにも考えずに空を見上げています。
作業の為に持ってきた三本爪の桑も無造作に地面に転がしたまま、紫苑は仕事もしないで朝から晩まで呆けて空の移り変わりを眺めていました。
あの騒動の後、お城から家に帰ってきてからというもの、毎日。


「おーい紫苑。隣のばあさんが野菜持っていけっつーから来たぞ」


風に流されないよう大きな声を張り上げながら、イヌカシが数匹の犬を従えて歩いてきました。
両手に、前が見えなくなる程の野菜を抱えて。引き連れた犬も、野菜の入った袋をくわえています。


「イヌカシ……」


犬に反応して後ずさる羊たちをなだめながら、紫苑はイヌカシの手から野菜を受け取る為に立ち上がりました。
小さな身体に不釣合いな程抱えていた野菜を、イヌカシは掛け声と共にどさりと地面に転がしました。


「よいしょっ、と。ふー、あのばあさん、人使いが荒くていけねぇや。こんなに渡されるなら、もっと頑丈な奴らを連れて行ったのに」


宅配の仕事を務めた犬を褒めてやりながら、イヌカシは口悪く言います。けれど紫苑は、イヌカシが口調ほどに乱暴者でないことを知っていました。


「ありがとう。ご苦労様」


額の汗を手の平で拭うイヌカシを労わりながら、紫苑は水筒に入れてきた新鮮な水を手渡します。イヌカシはそれをごくごくと喉を鳴らして、あっという間に飲み干してしまいました。


「っあー、一仕事した後の一服はうめぇな」
「ふふ、イヌカシ、飲んだくれのおじさんみたい」


紫苑はさっきまで腰掛けていた大きな岩をイヌカシに譲り、自分は柔らかな地面の上に座り込みました。
特等席の大岩にあぐらをかいてどっかり座り、イヌカシも紫苑のように空を見上げました。
頭の上には、透明に澄み渡った清い空。刈り取ったばかりの羊の毛によく似た雲が、ぽかぽかといくつも浮かんでいます。


「今日も天気いいな」
「うん。風が青くさい。しばらく雨はこなそうだね」


そのままどちらともなく会話は途絶え、二人は並んで黙って空を見上げていました。
しばらくして空の様子に飽きたイヌカシは、目線をずらして紫苑の横顔を見つめました。
何も考えていないような、横顔。けれどイヌカシは知っています。あの日以来、紫苑がどこか上の空で生活していることを。





お城から帰った二人は、近所に住む住人にそれはそれは、もてはやされました。
みんな王さまや王子さまのこと、お城での豪勢な食事のことを聞き、紫苑を腕の良い教師だと褒め称えました。
王子さまの教育が途中で中止になったことを、みんな知りません。
紫苑の腕前であっという間に王子さまを更生させて戻ってきたのだと。そう思っています。
どんな質問にも、イヌカシは少しだけ脚色を加えて大きな声で喋りました。みんながみんな、その話を大喜びで聞きました。
けれど、紫苑はお城でのことについて一言も話しません。
話を聞かれてもその仕事を全てイヌカシに任せて、いつも空を見上げていました。
イヌカシは、どうして紫苑が塞ぎ込んでいるのかを知っています。
もちろん、その原因は。お城での出来事でした。




羊たちが好き勝手に行動し始めたことにも気付かず、紫苑はぼんやりとしています。
イヌカシは紫苑の杖をさっと奪うと小走りで青々とした牧地を駆け、慣れた手つきで紫苑の代わりに羊をまとめ上げました。


「あ、ごめん。見てなかった」


やっと気付いた紫苑は遅れて立ち上がりましたが、その頃にはもうイヌカシは紫苑の横に戻ってきていました。


「ったく、大事な財産を逃がしちまうつもりかよ」
「ごめん、ぼんやりしてた…」


申し訳なさそうに謝る紫苑に、イヌカシは鼻で息を吐くとまた大岩に腰をおろしました。
腕組みをし、立ったままの紫苑を見上げ、少し眉を寄せて言います。


「おまえさん、いつまでそうしてるつもりだ」
「…………」


紫苑は答えません。


「いつまで、そんな風にぼやぼや過ごすつもりなんだよ」
「……いつまで、って」


そんなのわからない。紫苑には、そんなことはわかりません。
自分がどうするべきなのかも、わからないのですから。


「おまえさんが抜けてんのは知ってる。付き合い、それなりに長いんだからな。でも、でも。今までこんなことなかった。毎日毎日飯食ってんのか草食ってんのかわからない状態なんて、今までなかっただろうが」
「…………」
「おまえさん、ずっとこのままでいるつもりなのかよ。……らしくねぇよ」
「…………」
「おい、なんとか言ったらどうなんだ」
「……ごめん」


紫苑は、口先だけで謝りました。
あれからいつもそうです。イヌカシが何を聞いても「わからない」、何かを言うと「ごめん」。
俯いたままの紫苑に、イヌカシは焦れて大岩から勢いよく飛び降りました。


「あーあ! やってらんねぇ!」


大きな声で不満をぶちまけると、イヌカシは大股で牧場から去っていきました。
それに続いて犬も走り去り、牧場は再び風の音しか聞こえなくなりました。
立ちすくんだまま、紫苑は泣きそうに顔を歪めます。
地平線の果てに堂々と立ち並ぶ、城壁を見つめながら言いました。


「ぼくだって、どうしたらいいのかわからないんだよ」


お城から戻ってきてから、紫苑は毎日想っていました。
あのお城で生活した数日間のこと。
空を突き刺すようにそびえ立つ塔に拘束された、美しい二人の王子のこと。
不思議な感情に、身体が熱くなる感覚を。
毎日毎日、空を見上げて想っていました。








「いたずら王子と子犬と教師」















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