6テキスト
□いぬあらい
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わしゃわしゃ。
わしゃわしゃ。
…ぽん。
ぷかり、浮かんだ泡の玉。
…ぱちん。
敢えなく弾けた泡の玉。
…廃れたこの街にはそぐわない程、平和な光景。
浮かび上がって間もなく消えた、しゃぼんの向こう側には。
泡まみれの犬。
泡だらけの手。
構われることに喜んだ、はしゃぐチビ犬の鳴き声。
楽しそうな、紫苑の笑顔。
今日は、もう恒例になりつつある紫苑の犬洗いのバイトの日だ。
…こうして紫苑を雇い始めて、どれくらい経ったろうか。
最初の頃は、動物の扱いに慣れていないせいでたどたどしい手付きで世話をしていた。
洗うのも下手で、流すのも下手。
桶はひっくり返すわ、
犬を暴れさせるわ、
逃げた奴を追い掛けて自分も真っ黒に汚れるわ…。
じゃれついた奴に体当たりされて、川にすっ転んだ時もあった。
そんな、いつ解雇されてもおかしくないようなバイトだった紫苑が。
今では立派に仕事をこなせるようになっていた。
「ほーら、逃げない逃げない。泡を流してから」
冷たい水に怯えて逃げ出そうとするチビを押さえて、素早く泡を流してやる。
何度かそのまま水をかけ洗い流してしまうと、紫苑は軽くチビの身体を叩いた。
「はい。おしまい。
もう遊びに行っていいよ」
それを聞いたチビ犬は、勢い良く身体を震わせる(…いつも思うけど、よくもまぁあんなに早く身体を震わせられるもんだ)。
その水滴から逃れるようにして、紫苑は次の犬に手を掛けた。
「お待たせ。
じゃあ次は、きみの番だ」
人間を相手にするように、いちいち犬にも声をかけてやがる。
………たく、本当に平和な奴。
冷たい川の水に浸かり、真っ赤になった手足。
痛むだろうに。
辛いだろうに。
けれど紫苑は笑っている。
…楽しそうに。
見守るおれは、控えめに焚いた焚き火の側で犬の健康状態を見ていた。
まったく。
どっかの誰かさんと違って、紫苑は素直に働いてくれてること。
…その誰かさんは、今日は朝から出ているらしい。
仕事なんだか悪さなんだか女なんだか知らねぇが。
紫苑がこんな風に身体をはって稼いでいるってのに。
行き先も告げてやらねーとはな。
…そんな男のそばに、紫苑もよく愛想を尽かさずいるもんだ。
真っ白い泡を犬の身体にこすりつける。
下等品の石鹸の、安い香りがふんわりと漂ってくる。
「おまえさんも、随分ましな仕事をするようになったじゃねえか。
…犬たちも、紫苑を好いてる」
何の気なしに口にした。
それに紫苑は、心底嬉しそうに笑う。
「ありがとう、イヌカシ。
…今まで動物は見ているばかりだったから、こうして世話ができるのが楽しくて」
真っ直ぐな感謝の言葉。
くすぐるように、おれの心を撫でていく。
あまりに真っ直ぐに届くもんだから、こっちが恥ずかしくなっちまう…。
気恥ずかしさを隠す為、語気を荒げた。
「しかし…おまえさんの手元には、うちのよりでかくてたちの悪い、獰猛な奴がいるじゃねぇか。
…よっぽど、動物の世話が好きなんだな」
「そんなことない。
ネズミには言葉が通じるから、割と大人しくしてくれるよ。
洗う時も、暴れたりしないし」
へ〜。あのネズミがねぇ。
大人しくしてるのか。
…紫苑て案外猛獣使いなのかも……
……って、ちょっと待て。
洗う時…?
…なんだ、洗う時って。
「…おまえさん、ネズミのことも洗ってやってんのか…?」
「うん、そうだよ。
頭だけだけどね。
犬が上手に洗えるようになったのは、ネズミのおかげかもしれない」
「………おまえさんたち、いつも一緒に水浴びしてんのか?」
「やだなあイヌカシ。
さすがに水浴びはしないよ。ぬるいけど、お湯も出る」
ああそうか…湯も………って、そうじゃない。
そうじゃないだろ紫苑!
………人間の男どもって、一緒に水浴びするもんなのか…?
「水汲んでくるから、ちょっと待ってて。
逃げ出すんじゃないぞ?」
犬に一声かけて、紫苑は桶を持って川に駆けて行った。
笑顔の紫苑と、首を傾げるおれ。
泡だらけの手を川に浸けた紫苑の手元から、またしゃぼんがひとつ。
ぽかりと。
浮かび上がって、弾けた。
end*