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□ただ、幸せに思う
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何を思ったわけでもない。
ただ、なんとなく。
初秋の夕焼けを見上げていた。

九月に入ったとはいえ、まだまだ日差しの照り付けは、夏を忘れさせまいとするかのように厳しいままだ。
ここ、西ブロックでは。


秋、という季節は嫌いではない。
ゆっくりと、けれど確実に和らぐ日差し。突き抜けるように高い空。
虫の音がコロコロと響くようになり、そこはかとなく野焼きの匂いが漂ってくる。
厳しい冬を越す為の準備期間を、自然に与えられたかのようだ。
耐えがたい極寒を迎える前の、ほんの一瞬の慈悲の季節。


そんな優しい季節を嫌うことなどできない、けれど。
秋の、この時間帯。
辺り一面が橙に包まれる、暮れの間だけは。なぜだか無性に寂しくなる。
去りゆく季節への情だろうか。それとも、これから訪れる季節への憂いだろうか。


今日の夕焼けは、ことさら美しい。
見慣れた風景が、まるで別次元のように見える。
木々も、大地も、崩れた壁も、きみの、顔も。
すべて橙に染め上げて。


「紫苑、いつまでそうしてるつもりだ? 待っていたって、夕日はなにももたらしちゃくれないぜ。太陽が消えるのと引き換えに、闇は冷気を連れてくる。そんな薄着でいて、風邪なんかもってきたら迷惑だ。……行くぞ」


なんだよ。そんなに長々とは見てなかったじゃないか。
そんな、畳み掛けるように言わなくたって。

後ろに立っていたネズミに声をかけられ、景色から目を離して振り返る。
が、その姿は既に踵を返し住家の階段を下りていて。かろうじて目にできたのはひとつだけ。
風に煽られた超繊維布が、一度だけはためいた影。しかしそれも、呆気なく視界から消えた。


まあ、確かにネズミの言う通り。
地下のこもった空間にウイルスなんて連れ帰ろうもんなら、あっという間にきみに空気感染するだろう。
ネズミの言うことは、いつも理に適っている。
そして、よーーーく聞いて考えてみると、その中にさりげないけれど暖かな、気遣いを見つけることができるんだ。
……もう、素直じゃないんだから。
無意識に零れる笑みをそのままに、ぼくも住家に通じる階段に向かった。




階段を一段ずつ下りる度に、はっきりと冷気を肌に感じる。
室内の柔らかい温度に触れたくて、ぼくは扉を開いた。
けれど。


「……?」


予想に反して、室内は闇に包まれていた。

なぜだ? 先にネズミが戻ったはず。
地下室は普段から薄暗く、昼間から明かりを燈しているというのに。なぜ、真っ暗なんだ?


「、ネズミ? どうした? 何か」


あったのか。そう言おうとした時。
うたが、聞こえた。




“……あなたがここに 今、いることは

偶然ではなく
必然でもなく
運命でもない

あなたの意思と
わたしのこころ
重なり合って
今、至る

別れの川を見つめるまでに
数える程しか与えられぬが
その中の奇跡を
二度もの奇跡を
共に迎えられること

ただただ、幸せに思う……”




ネズミの、うただ。
優しい、暖かい、すべてを包み込むうた。
ひとつひとつの旋律が、静かな室内に柔らかく反響して、新たに不思議な音程を生み出している。
発せられる響きに、深い意味を含んだ言葉に、跳ね返る音に、耳を澄ます。
いつまでも、聞いていたい。何度でも、繰り返してほしい。
そう願っていたけれど。その音は、うたが終わると共にやがてゆっくりと消えていった。


ネズミがここでうたうことなんて、今まで一度だってなかった。
口を開いたものの、発する言葉が見当たらない。


「……」


美しい旋律の余韻に浸っていたのもあり、黙り込んでいると。


――。


小さな音を上げて、ひとつのろうそくが灯った。
暗闇の中のひとつの光。それに吸い寄せられるように、視線を向ける。
夕日の橙にも似た、暖色の光。ゆらゆらと揺らめいて、ろうそく受けを握るきみの手もおぼろげに見せる。
魔法のようなその動きに魅せられていると、歌声とは違うきみの声が低く聞こえてきた。


「紫苑、覚えてるか? 今日がなんの日か」
「今日……。あれ、今日って、何月何日だっけ?」
「はぁ。言うと思った。まぁ、カレンダーなんて、あったところで誰も見ない土地だからな。今日は九月七日。さぁ……なんの日だ?」


九月七日。
忘れるはずがない。日にちの感覚がないせいで忘れかけてはいたけど。
今日は、ぼくの。

ろうそく一本のかすかな明かりでは、きみの顔までは照らせない。
暗闇の中、きみの顔があるであろう位置から、笑いが漏れた。


「そうだ、ちゃんと覚えていたな。今日は、麗しき陛下の御誕生日。さしずめ私は、誕生を祝う宴に招かれたしがない吟遊詩人。陛下? おめでとうございます。これからも、皆を率いて進まれる光でありますよう……」
「吟遊詩人……じゃあ、さっきのうたは」
「あんたに捧げた、祝いの奏で。残念ながら、ここには出生を祝う為の豪華な夕餉や菓子なんてないからな。……おれが一人の為だけに、それも祝いの旋律を歌うなんて、そうそうないことだ。腹も膨れない代物で物足りないかもしれないけど、これで今年は我慢しなよ」


我慢…だなんて。


「我慢、だなんて……。我慢どころか、お返しをあげたいくらいだよ」
「……お返し?」
「ああ。じゃあぼくも、歌って返そうか。きみと出会えたこの日を讃える、うまく言葉に出来ない想いを」


少しの沈黙のあと、音もなく炎が揺らめいた。
いつもきみが腰掛けているであろう椅子。それの上にろうそく受けが置かれる。
暗闇の中だから、椅子の上だと思うのはただの推測だけれど。
炎と同じように音もなく、ネズミがこちらに歩み寄る。これは憶測ではなく気配を感じた。


「なぁんだ。しっかり覚えてるじゃないか。てっきり、誕生日に掻き消されておれのことなんて忘れられてるかと思ったのに。今日は、あんたの誕生日であり……おれとあんたが出会った日でもある」
「当然だ。覚えている。忘れない。頼まれたって、忘れてやらない。もし頼まれたなら、自分の誕生日の方を忘れるさ」
「ふふ。そんなことしてみろ。火藍が泣くぞ」
「……泣かせない。だって、きみが覚えていればいいんだから。……そうだろう?」


そうだ。
今日、九月七日は、ぼくの誕生日。そして、きみとぼくが出会った日。
日にちの感覚を忘れても、その記憶だけは忘れない。
記憶と、あの時の想いと。


「ぼくの誕生日だけど、きみだってもう部外者じゃない。だから、祝い返すよ。……ぼくの知っている歌なんて、童謡くらいだけど。何がいい? リクエストがあれば、歌うよ」


そう言い終らないうちに、暗闇から手が伸びてきてぼくの顎に触れた。


「あんた、祝いの日に童謡だって? この雰囲気で“どんぐりころころ”でも聞かせてくれるつもりか?」
「“赤とんぼ”がリクエストなら、そっちでもいい」
「はぁ。……ふふ。あんたといると、飽きないな」
「どうする? 飽きたら捨てる、か?」
「……誰が捨ててやるかよ。何度だって、嫌がられたって、この日を祝ってやるさ」


ゆっくりと指先で唇をなぞられ、軽くくちづけを落とされる。
反射的に顔を上げると、闇の中に暖かい気配を感じた。
そのまま、口移しで囁かれ続けた。
何度も、何度も。甘く柔らかな、祝いの言葉を。






08.09.08*
 

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