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□きみの悪事と果てない回廊
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「飛、べる……?」


予想外の解答に、紫苑はぽかんとした。
体調不良を改善する薬ではなく、貴重で上質な薬。そして、空だかどこだかを飛べるらしい。
そんなものがあっただろうか。
紫苑は昔詰め込んだ薬学の知識を掘り返す。けれど思い返す限り、まともな薬でそのような効能のあるものはない。
強いていうのなら。


「そっ、それってもしかして、麻薬、じゃないだろうな……!」


ネズミは笑みを張り付かせたまま、否定も肯定もしてこない。
それを見て青ざめながら、紫苑はそれを肯定と受け取った。


「き、きみは、そんな危ない薬を貰って喜んでるのか! ヘロインか? マリファナか! 大麻かLSDか!? みっ、見せてみろ!」


慌てふためく紫苑をよそに、ネズミは涼しい顔でまだニヤニヤ笑っている。紫苑の反応が、楽しくて仕方がない、とでも言った風に。


「まっ麻薬なんかにはまったら、きみは人間として崩壊するんだぞ! っ、一瞬の快楽に、身を、委ねるなっ……!」


錠剤を奪い取ろうとする紫苑と、巧みにそれをかわすネズミ。
自分は必死に取り上げようとしているのに、相手は軽いステップにターンまで織り交ぜて、まるで優雅に踊っているように見える。それがまた、腹立たしい。
息を切らした紫苑と、まったく呼吸の乱れぬネズミ。
ネズミは緩慢な動作で錠剤をひとつつまみ上げると、


「大丈夫。依存性も幻覚も副作用も、何もないから。ただあるのは、果てのない、目の眩むような……快感だけ」


うっとりと、しかし艶っぽく。魔法の言葉でも呟くように、そう言ってのけ。
空を仰ぎ見るように首を傾け。
ネズミは錠剤を口に含んだ。


「っだ! だめだ、ネズ」


ミ!
と言おうとした瞬間、紫苑は強い力で引き寄せられた。
ネズミに抱え込まれるような体勢になり、相手の顔を見ると同時に唇を奪われた。


「んっ、んぅ」


いつも交わすキスではなかった。紫苑の口内にネズミの舌が入り込む。そのまま口移しで含まされたのは。
先程ネズミが口にした、白く丸い錠剤。


「――! っ、んむ、ぅう……!」


錠剤を拒むためにかすかに首を振る。必死に押し返そうとした。
しかし、押し返すということは、ネズミに麻薬と思しき薬を飲ませることにはならないか。
そんなことを考えているうちに、唾液を嚥下するのと一緒に錠剤は紫苑の喉の奥に流れていった。


「んむ……う、ん」


紫苑がこくりを喉を鳴らしたのを見て、ネズミは唇を離した。
そして、さっきとは打って変わったキスをする。軽く、優しく、啄むようなキスを。
ちゅ、ちゅ、とわざと音を立てる。
愛しさを具体化したかのような仕草に、紫苑は抗えなくなる。

自然と唇が離れてから、互いに息をつく。
数回呼吸をするうち、ようやく紫苑は自分にしでかされたことに気付き、わなわなと震え出した。


「な……、なっ、なな、な!」


言葉にならない動揺を見せる紫苑をよそに、ネズミは平然と言ってのける。


「うん、思ってたよりも甘かったな。薬なんて、みんな苦くてまずいと思ってたのに」
「な、なっ……なんてことするんだっ! きみは少し舐めただけだけど、ぼ、ぼくは、飲み込んだんだぞ! っきみのせいで!」
「うーん。だって、最初から紫苑に飲ませたかったんだし?」
「さ、最低だ……最悪だ……。きみは、ぼくを廃人にしたいのか!? そこまでぼくが憎いのか! 邪魔なのか!」
「邪魔? なに言ってるんだ。邪魔だったらとっくに追い出してるさ」
「そんなこと聞いてるんじゃない! ぼくに怪しい薬を飲ませて、狂いゆく様を! 見たかっ…………た、の…? か?」


途中で突然勢いを失い、紫苑は胸元を両手で押さえる。鼓動が、やけに早い。
視線が、自分に何が起きたのか把握するためきょときょと動く。


「な、なに……? なんか急、に、ちからが」
「即効性のある薬だな。……相当な上等品だ」


怪しく微笑むネズミの顔が、涙でぶれる。ひどく頭がぼんやりして、動悸が激しい。心持ち、目眩を感じるような気さえする。
身体が、熱い。


「な、なん……、なんだよ、これ……? な、に? ま、やくの、効果……?」


膝が笑う。立っているのも辛くなってきた。我慢できずにがくんと膝が折れる。
倒れ込みそうになったところを、すんでのところでネズミに抱きすくめられた。


「ぁっ……!?」


ただ、抱きしめられただけなのに。背中に手を回されただけなのに、なんだか異様にくすぐったい。先程は平気だったのに。
おかしな薬のせいだろうか。


「な、なに、ネズミ、これ……。そ、そんなに、毒性のある、薬……だったの、か……? ぼく、は……し、死ぬのか?」


それを聞いたネズミが、耳元でくすりと笑った。不意に触れた吐息に、心臓と身体が弾む。


「っ、や……っ!」


その反応を楽しむかのように、紫苑の耳に口を当ててネズミは低く囁く。


「紫苑、落ち着いて……。大丈夫、あの薬、身体には無害のものだから。ただちょっと、感覚が鋭くなって、貪欲になるだけのもの」
「どん、よく……?」
「ああ。実はあれ、媚薬の錠剤、だったんだ」


びやくの……じょうざい? びやく、びや、……び、媚薬!?


「び、媚薬って! ネッ、ネズミ、きみはそれをぼくに、飲ませたの、か!?」
「そうだ。ふふっ、現に効果が現れてる。性的興奮の高まり、惚れ薬効果、精力剤、強壮剤……感度も、すごくよくなってるみたいだな。腕や、背中に触れただけなのに」
「やっ! あっ……」
「全身が性感帯みたい。……触り甲斐がある」


耳に直接言葉を流し込まれ、崩れ落ちそうな身体をネズミの腕に支えられ、背骨の辺りをなぞるように触れられ。
ただそれだけのことが、紫苑をどうしようもなく煽る。気を抜くとすぐに声を上げてしまいそうだ。
とりあえず、離してほしい。触れられていると、どんどんおかしな気分になってくる。


「ネッ、ズミ、はな、して! んっ……!」


麻薬よりも、ある意味危険な薬を飲まされてしまった。悔しい。怒って、殴って、思い切り喚いてやりたい。
しかし、今はどれもできそうになかった。
ネズミの言う通り即効性の薬なのか、既にまともな思考で物事を判断できなくなり始めていた。
身体全体、特に、下肢が熱い。


「離してもいいけど、紫苑、まともに歩けないだろう? ベッドまで運んでやるって」


心配するそぶりを見せながら、ネズミはいつまでも笑っている。帰ってきてから、ずっとだ。心底、楽しんでいる。
舞台を演じてきて疲れているはずだろう! こんなことしてないでさっさと休んだらどうだ!
紫苑は、心の中で叫んだ。


「い、いい、はこばなくて、いいからっ、はな、せ!」
「……そこまでおっしゃるのなら、仰せの通りに」


ネズミがゆっくりと、紫苑を支えていた腕を解いた。
即座に一歩後退し、ネズミと距離を置く、はずが、うまく歩けず一歩後退してそのまま尻餅をついた。


「うっ、ぁ」
「だから言ったのに。大丈夫か?紫苑」


目の前の男は、何を以て大丈夫かと聞いているのか。身体か。心か。精神状態か。性欲か。
あいにく、どれも大丈夫ではない。全て、きみのせいで!


「で、出て、け」
「ん?」
「出て、いって、くれ! これ以上、きみがここに居た、らっ、何を晒すかわから、ない」
「……残念だけど、出ていくわけにはいかないな。陛下が、あられもなく喘ぎ求める姿が拝みたくて、賜ってきた代物なのですよ?」
「っ! んぅ、じゃ、あ! ぼくが、出ていく……!」
「冗談。そんな状態で出ていかれてたまるかよ。今のあんた、男も女も、犬も猫も黙っちゃいないぜ。すぐ倒されて、犯される。それほど、色っぽい」


尻餅をついたまま潤んだ瞳で自分を見上げる紫苑に、ネズミはぞくりと感情がざわつくのを感じる。
攻撃的な、野性的な気持ちが芽生える。


「それにな、紫苑」


小刻みに震え、額に汗を滲ませている紫苑に歩み寄り、跪く。くっと指先で顎を上げると、それすらに過敏に反応を返してくる。
……たまらない。


「最初、薬を口に含んだのはおれだ。あんたに与えるまでに、多少とはいえ錠剤は溶けた。と、いうことは……?紫苑」
「あ……ま、さか、きみ、にも…薬の効果が……?」
「ご名答。思考は働いているみたいだな。褒めてやるよ。実は、おれも興奮してる。あんたの、その姿。あんたのすべてに」


どくり。全身が脈打った。ネズミにも、薬の効果が? しかも、興奮している?
……ぼくに?


「っ! あ!」


ネズミが、紫苑の手を取り、その甲に口づけた。
騎士が、姫に忠誠を誓うように、尊敬と愛情を込めた口づけ。ぼんやりと頭の片隅で、紫苑は昔読んだ童話を思い出した。


「逃れられないこと、わかった? おれも、そろそろあんたに触れたくてたまらないんだ。おれに、一晩身を委ねてよ……」


甘い甘い告白の言葉。
どくり。また全身が脈打つ。だめだ、さからえそうにない。
抱え上げようと差し延べられたネズミの手を、紫苑は目を伏せて静かに受け入れた。





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