6テキスト

□幸せのかたち
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ある日の平和な昼下がり。
昼食の支度をするネズミと、それを見守る紫苑。
小ネズミが部屋を駆ける小刻みな物音、時折聞こえる鳴き声。
部屋にはスープの香りが立ち込めている。小さな音を上げて煮詰まるそれを、ゆっくりと掻き混ぜる、美しい人。
日常の何気ない風景まで絵にしてしまうような存在感を持つ男を、紫苑は無心で眺めていた。
特に思いを込めるわけでもなく、ただただ、無心に。


「先程から、一体なんの御用です、陛下。そうして見つめるだけでは、スープは完成しないのですよ。ほら紫苑、食器出して」


紫苑の方には目もくれず、ネズミは注意を促した。
それを受けて支度をしながら、紫苑は口を開く。


「なぁ、ネズミ。聞いてもいいかい?」
「今日のスープの中身について? 玉ねぎ人参キャベツじゃがいもその他もろもろの野菜の切れ端を煮込んでとろみをつけた、特製端材スープでございます。陛下のお口に物足りないのは重々承知のうえ、この期に及んで文句なんておっしゃいませぬよう」
「物足りないわけない。充分じゃないか。……て、そうじゃなく」


掻き混ぜていたおたまに口を付け熱いと一人ごちてから、ネズミは訝しげに紫苑を見遣った。


「なんだ?」
「ふと思ったことなんだけど……。君、幸せって、何だと思う?」


突然の突拍子のない問い掛けに、思わずネズミはずっこけそうになった。
しあわせ……? この西ブロックで、こんな太陽を浴びることもうまくできないような地で、一体何が幸せか。
……こいつはどこまでお気楽な坊ちゃんなんだろう。

ネズミの考えも知らず、紫苑ははにかんだ笑顔で続ける。


「ぼく、今この状況も幸せのうちのひとつだと思うんだ」


更に何を言い出すかと思えば。
無表情を装っていたつもりだけれど、無意識に眉根が寄った。

こいつ、お気楽を通り越してただの馬鹿だ。平和ボケしすぎてる。
あんたの前にこれから出されるのは、満腹感を得られる美味じゃない。栄養もろくに取れない、ごみのようなスープだぞ?
今この瞬間が幸せでも、次の一瞬には地獄に反転するかもしれないのに。
おれがあんたの味方? なんて、愚かしいこと。誰も保証し得ないというのに。
そんな、命すら危ぶまれるこの街の、何が一体、幸せと言える。
現に、そんな姿にされて。他人に人生を引っ掻き回されて。
呆れを上回り、この場にそぐわない平和的思考に苛立ちを感じる。

……どう言ったら、この楽観主義者に現実を突き付けられるのか。
いっそ攻撃して教えてやろうか。目の前の男も、いつだって善意を振り返して敵になりうるのだということを。

緩慢な、しかし怒気を孕んだ動作で、ネズミはスープを掻き混ぜる手を止めた。
一度浮かんだ考えは消えない。攻撃的な感情がふつふつと湧き上がっている。

次に口を開いたら、拳に物言わせて黙らせてやる。助走もつけずに飛びかかって、そのまま殴り倒してしまおう。

冷ややかな視線を紫苑に向ける。
だがそれにまったく臆さず、紫苑は言った。


「君がここに、居てくれるから」


暴力的な気持ちが思わず霧散してしまいそうな拍子抜けする言葉に、思わず耳を疑った。
なんだと? なにを言っている?


「……は?」
「えっと、だから、不謹慎かなとは思うんだけど……。今、ぼくは生きていて、食べるものがあって、着る衣服があって、雨風を凌ぐところがあって、手の届く範囲に、美しい人が居る。それイコール、幸せ、なんじゃないかって。ささやかなことかもしれないけれど、たった今、実感したんだ」


……なんだ、こいつ…。
呆れより、苛立ちより、根本的なこと。こいつ、意味不明だ。
こんな、ごみのような食べ物を、汚泥にまみれた衣服を、かび臭い地下室を、こんな、腹の中では何を考えているのかわからないような男と一緒に居ることを、幸せに感じるだと?
西ブロックの誰もが羨む生活に悔いを残さず、この現状に、幸福を見出だすだと?
呆れて、かける言葉もない。

先程まで苛立っていたことすら馬鹿らしく思えて、ネズミはスープの調理を再開した。


「正気の沙汰とは思えないな。大事に育て上げられたエリートの考えなんて、これっぽちも理解できないね」


自分に背を向けて調理に専念するネズミを見て、紫苑は残念そうに息を吐いた。


「はぁ。慎重に言葉を選んで言ったつもりなのに。ぼくの、生まれて初めての告白だったのになぁ……。少しも理解して貰えないらしい。悲しいね、ハムレット」
「あちっ!」


紫苑の呟きに気を取られていたネズミは、掻き混ぜる勢いに余って鍋のふちを思い切り触った。


「いいんだよ。ハムレットに向けての独り言だったんだから。ねー。君は素直で賢くて可愛いね、小さなネズミのハムレット」


机の上に乗り――ネズミがいつも行儀が悪いと怒る――首を傾げるハムレットに向けて、紫苑は呟いた。
そして、思う。“理解できない”とは言われたが、告白を拒否されたのではない。
今は、それだけで充分だ。
自分の言葉に動揺して、火傷をするくらいで、今日のところは満足しておこう。
ネズミから顔を背け、ハムレットにだけ見えるようにして、紫苑は幸せそうに微笑んだ。

紫苑の背中越し、鍋に顔を向けながら、ネズミも知らぬ間に微笑んでいた。
決して紫苑には見せてやらないけれど。それは、珍しく満たされた笑顔だった。

スープを皿によそう音、足の段差のせいでがたがた鳴く椅子。
小ネズミの鳴き交わす声と、軽やかに駆け回る足音。
いつまで続くかはわからない、だが、どうか願わくば。
二人揃って、もう一度幸せを噛み締められるよう。この束の間の休息で、許される限り今を抱きしめていよう。

そう二人が思い合った今、この時。薄暗い地下室には、確かに幸せな空気が満ち満ちていた。




08.04.28*
 

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