6テキスト

□おやすみの、
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カサ、カサ―――



ひとつの狭い部屋に聞こえる音は、とても小さく。そして少ない。

僅かに紙の擦れる音。
椅子に腰掛けた紫苑が、足を組み替える度に鳴る砂粒の音。
二人分の静かな吐息。
ネズミの身じろぎに沈む、古いベッドの軋む音。
小ネズミの囁き。
風に窓がかすかに揺れる音。
それらの音の繰り返し。

余計な雑音の入らないこの部屋で、二人は別々に読書をしていた。

紙の擦れる音。
ベッドの軋み。


「ふあ…ぁ……あふ」


紫苑のあくび。


「紫苑、もう寝るか?」
「ん…区切りがいいし、そうしようかな。ネズミは?まだ起きてる?」
「ああ、この章だけ、読み終える」


凝った装丁の古びた本に付属のしおりを挟み、紫苑はそれを椅子の上に置いた。
軽く伸びをし、ネズミの寝転んでいるベッドへと向かう。

ネズミの横に腰をおろすと、重量を増したベッドが派手に軋んだ。
もともと二人寝られるようには設計されてはいないのだろう。少しの動作ですぐ軋む。壊れる程ではないが、多少気になる。
しかし、他に満足に眠りに就けるところは見当たらない。
もっとも、眠りに落ちてしまえば、そんなものはなんの妨げにもならない。
今日も、気にしないことにした。

薄汚れた毛布を手繰り寄せ、丁寧に皺を伸ばしていく。


「じゃあ、一足先に寝る。ネズミ、おやすみ」


心地よく押し寄せる睡魔に身を委ねようと、紫苑は横になった。


「紫苑」


ネズミに引き止められ、閉じかけた瞼を開く。声のした方に目を向けると、柔らかく、しかし何かを請うような笑顔。
挑戦的なものやなまめかしいものではない、例えるならば聖母のような穏やかな笑みで、ネズミは紫苑を見下ろしていた。
素直に美しい、と思う。
その笑顔を崩さぬまま、ネズミは言った。


「違うだろう、紫苑。一日の終わり、おやすみの挨拶は、労いを込めて、優しいくちづけを」
「っ……。な、何言ってるんだ」


紫苑の動揺した姿を見て、ネズミは意地悪く口元を歪める。


「あれー? この前おやすみのキスをくれたのは、誰だったかなぁ? 違う唇だったのかな?」
「……」


前言撤回。
目の前にいるのは聖母じゃない。巧妙に聖母のふりをした、根性の曲がった悪魔の手先だ。

紫苑が黙っていると、確かめるようにネズミは言った。
本を伏せて空いた右手で、紫苑の透き通るような白髪を軽く撫でて。


「あの上手なくちづけをくれたのは、誰? このままじゃ、おれ眠れない」
「……茶化すなら、二度としない」
「茶化してるわけじゃない。眠る前、一日の終わりに、ささやかな望みを叶えてくれてもいいだろう?」
「……」
「なぁ、紫苑。キスを」
「………」
「紫苑、キスして」
「……駄々こねるなんて、ずるいよ」
「ねぇ、紫苑…? キス、してよ」


髪を撫でていた右手を滑らせ、軽く耳を弄びながら、ネズミは低く囁かれ。
切なくなるような響きを間近で聞いた紫苑は、諦めて短く息を吐いた。
そんな声、反則じゃないか。


「はぁ。この、わがままネズミ」
「なんとでも」


状態を起こし、ネズミと向き合い。
覗き込むように寄せた顔に手を添え、紫苑は一瞬触れるか触れないかという刹那的なくちづけをした。


「……」
「……はい、おしまい。じゃ、ぼく寝るよ」


照れた顔を少し俯けて、紫苑は毛布を引っ張ろうとした。
その手を、ネズミが軽く押さえる。


「まぁ急ぐなって。僭越ながら、今夜はおれからも、お返しを」
「おか、お返しって……」
「ほら。いいから」


俯いていた顎を素早く上げると、ネズミはゆっくりと紫苑に唇を重ねた。




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